回想、身の回りのこと、芸術あれこれ2017     

              

「井戸を掘る」ということから  

                    立木 勲

 

「夫婦というのは一種の相互治療的な意味はあるのですか」(村上春樹)※1

「ものすごくあると思います。だから、苦しみも大変深いんじゃないでしょうか。

 夫婦が相手を理解しようと思ったら、理性だけで話し合うのではなくて、『井戸』を掘らないとだめなのです。」「・・なんのために結婚して夫婦になるのかといったら、苦しむために、『井戸堀り』をするためなんだ、というのがぼくの結論なのです。」(河合隼雄)

道具と部材を使い、地を掘り井戸として組み上げていく作業は、混沌とした関係の中から言葉を掘り起こし組み立てて詩を創るのに似ている。夫婦は人と人との関係において基本の一つであるのだが、今の時代むしろ難しいテーマになっていると言われる。私が妻ヨンヒの詩を創るのは「井戸掘り」のひとつのあり方であるとも思われ、僅かながら、今日的な意味もあるのではないかと思っている。  

   ※1 「村上春樹、河合隼雄に会いに行く」(新潮文庫)より (12/28)

 

パラレルワールド  

       大城 定

 

 取るに足らない話だと思われるかもしれないが、奇妙なことに総合病院の入り口には、ある種の認証機能があるように思えてならない。受付の機械が診察券を読み込むといった実際的なこと以外に、そこを越えると何やら自分がそれだけで重病人のレッテルを貼られたような気になるから不思議だ。その大きな建物の下のほうに誰も行きたがらない暗いひんやりとした部屋があるからだろうか。

  先日、私は初めて訪れた総合病院の受付嬢に、以前この病院にかかったことはないかと問われた。奇妙なことを訊いてくると思ったが、名前が同じで、生年月日が同じ人がすでに登録されているという。それには驚かされた。この広い世界だ。そんなことがあってもおかしくはないのかもしれないが、それにしても、そんなことがあるのだろうか。いや、ひょっとして、実は私はのっぴきならない事情ですでにこの病院の世話になっていて、そのことをすっかり忘れているのではないか。十二支を五回廻ったのだ。そんな疑いさえ、わき上がってくる。

  もう一度調べなおすという彼女の言葉に待合席に戻った私は、自分の身分証明書が急に不確かなものに感じられて落ち着かなかった。

   再び私は彼女に呼ばれて、以前Aという姓ではありませんでしたか、と尋ねられた。生年月日と下の名前が同じ場合、一応確かめるのだという。私は肩透かしをくらったように、なあんだと呟いて、首を横に振った。女性であれば、そういうこともあるのだろう。だが、私は男性である。下の名前は女性に間違われるものではない。いや、そうか、養子の場合がある。それにしても、確率はかなり低いのだ。私は戻った席に深く体を沈めながら、あれやこれやと数字をいじるように考えを巡らせていた。だが急に、何かとても大事なことを一つ見落としているような気持ちに襲われた。そのAさんが元気でいるとは限らない。私は私の分身のような彼のことをひそかに案じたのである、まるでパラレルワールドにいるもう一人の自分を垣間見るとでもいうように。(12/15)  

       

風仕事   

                宗田とも子

 

   カルガモの親子の丸い動きが包まれる。コーヒー豆を挽いた香がカフェを越え溶けていく、本屋で手を繋いで選ぶひとたちの、ただ漂うだけの明日も、裏道の魚屋でゴムの前垂姿が揃ってさばく鯵をもさらしている。数珠玉や烏瓜の摘む影もなく退化させていく色たち。 海風が通る理科室に落としモノをしてきてしまった。背もたれの無い椅子に座ろう。国府津のホームから海が見える、風の旋律に押されて御殿場線に乗り換える。(12/2)    

 

映画って?  

                鈴木正枝

 

 昔々田舎の町外れにたったひとつ小さな映画館があった。小学3,4年の頃母といっしょに夜よく観に行った。その頃は東映時代劇の全盛期で勿論白黒、中村錦之助、東千代之介等のキラリと光る剣さばきにわくわくしたりした。それが映画を観始めた最初だったような気がする。

 それから何本映画を観たことだろう。今となってはその大部分が、記憶の網をすり抜けてどこか遠くへ飛んでいってしまったような気がする。なんとも情けない。さびしいし、残念で仕方がない。今すぐ、記憶の一本、と問われたら、何と答えられるだろう。多分、『マシニスト』(機械工)と言うような気がする。それはほとんど一人で観に行く私が、珍しく友人を誘ったということにもある。もう10年以上も前のことだ。ところが始まって15分も経つか経たない内に、「わたし、帰る」と友人が立ち上がったのだ。「こんなの、観ていられない」「じゃ、わたしも」とは、言わなかった。彼女はさっさと帰り、私は最後まで映画を満喫した。それでも気になって終ってすぐ連絡すると、「大丈夫、コーヒー飲んで、買物して気分転換したから。まさか、全部観たの?」それはそうだろう。私は彼女もてっきり興味を持つと思っていたので、嫌な思いをさせて悪いことをした、と後悔した。

 映画の登場人物の名も細かい部分も例によって忘れてしまったが、原因不明の極度の不眠症にかかり、一年近くもろくに眠らず、食べず、がりがりに痩せて幻覚と妄想に追い詰められていくひとりの機械工の物語だった。といっても、それは最後に分かることであって、観客は主人公の視点を通して同じ幻覚を見ることになる。幻覚か現実かも定かではない。妄想に苛まれながら次第に狂気に追い詰められていく恐怖感を、観客もいっしょに味わわなければならない。最後に初めて原因が明らかになるのだが、それは一年前ある男の子(誰の子か?)をひき逃げで殺してしまった深い罪悪感だった。警察に出頭し、やっと穏やかな眠りが彼に訪れるのだった。恐らく観客にも。それ以来映画はひとりに限る、というのが自論になっている。(11/15)     

 

贈り物    

                河口夏実

 

きょう買い物に行って帰ってきたら

家のドアのノブに大きなビニール袋が掛かっていた。
中にはいろいろなもの、マスカットのプチケーキと洗剤
チョコレート、毛糸で編まれたものは一瞬小物入れのように見えたが
手紙も入っていてこう書かれていた。
「なっちゃん、ありがとう。嬉しかったです。おばさんが編んだ靴下です。
ひとつはお姉ちゃんにあげてください。」
それは近所のおばさんからで、いまご主人の介護がたいへんだから
道で会うと、いつもそんな話になる。私の母は今年の7月に亡くなり
でもまだ身の回りにある介護用品をすこし差し上げたのだった。
おばさんの靴下はとても華やかに編み込まれていた。
まるでクリスマスプレゼントみたいだ。
さっきブックオフで見かけて久しぶりにひらいたモンゴメリの本のなかは
新鮮な風が吹いていて
母に供える花を選ぶとき冷たい雨がすこし降っていた。
毛糸の靴下はとても暖かく、居心地のいい部屋をつくりだすように思えた。
電話でお礼を言うと、お風呂上りに履くとあったまるよと言って
おばさんはもう一度ありがとうと言った。(10/31)
     

 

暮らす     

                    柴田秀子

 

 近頃、生活時間が乱れ易い。丁寧に暮らしていないのか、それとも何となく焦っているのか不明。

  季節の変り目をいち早く見つけられるのが庭の草花たち、球根や多年草の花は、手入れを少々怠ったとしても、目をつむってくれる。花をつけるまで、花なりのサイクルを回しているから、咲くというエネルギーは生命そのもの、黙したままに見える姿からも十分感じられる。

  チェコに行ったとき、共産圏の中で生きてきたという女性のガイドさんから、当時の様相を輪郭だけ知ることができた。アパートは倉庫のような外観に小さな窓、国はEUに加入したものの通貨の普及は三年先らしい。あれからどんな暮らし振りになったかと時折思い出す。

  観光名所をいくつか巡り、市場へ行った。肉、魚、野菜、果物など種類が多かった。そのなかに手づくりのレースや刺繍布の技術は見事だった。

  買物客は持参の篭やバックに秤り売りの品物を入れていた。とてつもない大きい声で注文していた。

  この市場の長椅子に休んで眺めている限りでは、人々は「生きてるって?」を考える以前に既に明快な生き方をしていると感じた。

  帰宅してからは伸び放題の草を抜き、戸口には新しい苗を植え、花が咲く日を静かに待ちました。(10/15)

 

 尾瀬の思い出  

                   田尻英秋

 

 実家で家財道具を整理していると、とっくの昔に無くなったと思ったものが残っていた。小学五年生の夏休みの課題研究、尾瀬ヶ原に両親とハイキングに出かけた時の植物の観察記録だ。あの時、両親にせがんで夜行バスに乗って連れて行ってもらった時のものだ。早朝、山小屋から出発して森の中を歩いて行った。尾瀬ヶ原に着くと湿原地帯に合わせて歩道は板で出来たものとなった。夏休み後半で花の種類は決して多くなかったが、それでもニッコウキスゲ、オゼコウホネ、アザミ、モウセンゴケ、それに浮島などを熱心に写真に捉えていた。ミズバショウも花がとっくに終わって葉っぱだけになったものを写真に写していた。撮った写真の下には図鑑から引き写した解説を付けていた。また、これも引き写しだが湿原の成り立ちを図解にして解説していた。当時は親からよく図鑑を買い与えられていた。思えば昔は動植物や自然が好きな子供であった。今その図鑑はほとんどこの度の身辺整理で処分してしまった。学校でも理科は好きな方であった。国語はむしろ苦手で、本もあまり読んでなかった。今のように詩作をすることなど全然思いもよらなかった。そうした自然への嗜好があったからか大学は農学部を選んで、林業関連の会社に就職した。しかし会社は採算重視、林業自体は注目されてはいたが会社の経営は厳しく、十年余り勤めて辞めざるを得なくなってしまった。それから福祉の仕事に転職して自然とは益々縁遠くなってしまった。こうして昔の写真を見ていると、また改めて尾瀬にでも行って見たく思う。これからは秋、花の季節とは違うけど紅葉もいいかもしれない。(9/31)

 

明るい雨    

            若尾儀武

               

  そろそろコスモスの花の季節だと思うが、今年はまだコスモスの花を見ていない。単に私の行動範囲が狭くて、コスモスがないだけなのか、ちょっとした異変なのか分からない。

 もう五十年近く前のことである。私はその年の夏の終わり、長野県の大町というところでホップ摘みの農仕事を手伝っていた。雨の気配は全く感じられない空だった。それなのに昼すぎ、明るい雨が降って庭いっぱいに咲いたコスモスの花を濡らした。雨が止むのを待つ間、私たちは野沢菜の漬物をお菜にしてお茶を飲んでいた。遠くの山で静かに雷鳴が鳴っていた。

 その時だった。テレビ画面が急に切り替わって、「松本深志高校の生徒が穂高登山中落雷に遭った。」とアナウンサーが告げた。そして、たたみかけるように「亡くなられた方、負傷された方は次のとおりです。」と言った。

 お母さんが悲鳴とも泣き声ともつかぬ声をあげた。お父さんはその肩を仁王のような両手で支えていた。登山グループの中に息子さんがいたのである。名前が読みあげられれば、一切が終わる。私たちは画面の文字に見入った。

  長かった。

  幸い、息子さんは雷にうたれて重傷であったけれども、命に別条はなかった。明るい雨は降りやまず、コスモスを濡らし続けていた。

 未だに、その異様な明るさは胸に残っている。(9/12)