回想、身のまわりのこと、芸術あれこれ2019(上)

六月の雨   

       冨岡悦子


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今年の六月四日は、三十年前に起きた天安門事件を取り上げる報道が続いた。当日午後七時のNHKのニュースでは北京からの中継があり、トピックとなった天安門事件関連の映像は中断されたと伝えている。北京での街頭インタビューが流れたが、誰もが一様に「天安門事件について知らない、関心がない」と答えていた。天気予報は低気圧が近づいていると報じていた。

その三日後には、雨の季節になった。発熱したので、週末はやむなく横になって雨の音を聴いていた。アスファルトに降る雨の音だ。心なしか硬質に聞こえる音。土に受けとめてもらえず、地下の水路に集められる雨。土の道に降る雨は、もっと柔らかい音ではなかっただろうか。

北原白秋に「あめふり」という詩がある。百年ほど前に書かれた詩で、中山晋平の作曲によって童謡として世に知られた歌だ。五番までみな「ピッチピッチチャップチャップ/ランランラン」と弾む音で締めくくられている。雨降るなかを歩く昂揚感を、この擬音語は心躍るリズムでとらえている。だが、この音は水たまりのできる道から生まれるもので、アスファルトで舗装された道からは聞こえてこない。

「あめあめふれふれ かあさんが/じゃのめでおむかい うれしいな」で始まるこの歌は、ささやかな物語詩になっている。雨の日に母親に傘を持って迎えに来てもらった子供が、幸せな気分で家路を歩いていると、柳の木の下で泣いている友人を見つける。友人に傘を貸して、自分は母の大きな傘に入って帰ろうと思いつくのである。白秋の詩には、その友人が遠慮して躊躇する様子が暗に示されている。五番まで歌詞を思い出しながら、しだいに胸がざわついてくる。

この子供の好意は素直に受け入れられただろうか。母はわが子の善意に水を差さなかっただろうか。あるいは、差し出された傘が受け取られたとして、二人の子供は境遇の差をのりこえて親しくしていられただろうか。持ち重りのする「蛇の目傘」の残像が、浮かんでは消えた。

  子供に芽生えた小さな善意は尊い。小さな善意は成長につれて、まっとうな正義感に形を変えることもあるだろう。若者が身体を張って世界を変えたいと願ったことを、なかったことにしてはいけないのだ。熱に朦朧としながら、天安門のアスファルトの上で叫ぶ青年の映像が脳裏から離れない。 (6/15)

 

21世紀の青年作家を訪ねて   

       立木 勲 


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 僕と妻のヨンヒは東亞日報の記事により、韓国で詩の専門書店を運営する詩人ユ・ヒギョンさんの事を知り、『タンブルウィード』5号にその記事の翻訳を掲載した。そして、いつかその書店を訪れて、「ふたりで作った詩集を置いていただけないか」と、話をしたいと考えていた。街角の花屋に花が並べられているように、詩集が並べ飾られる、そんな店にするのだと彼は記事の中で語っていたのである。

ヨンヒが彼の店を訪ねたのは今年の春のことである。

ヨンヒの兄は半年前から入退院を繰り返していたが、3月、一度会いに来いとの連絡があり、ヨンヒは一週間ばかり韓国に行くことになった。その中の半日でヨンヒはユ・ヒギョンさんを訪ねたのである。

ヨンヒが記事に記載の住所を訪ねると、そこはネット関連の店であったということである。そのビルの1階はレストランであり、そのオーナーが言うには、2階にあった書店は7カ月ほどまえに閉じたということである。尋ねるヨンヒにオーナーはユ・ヒギョンさんの電話番号を教えてくれたので、会いたいとヨンヒは彼に電話をかけた。

「私に会ってどうするんですか。会わなくてもいいです。」ぶっきらぼうに言われもしたが、今はテハンノの書店にいるとの事を聞き、ヨンヒはそこに出かけて行ったのである。

そこはごく普通の大きな書店で、詩人がオーナーであるとは思えないほどであったようである。「私は人に会うのが得意ではない。」と言う彼との長くない会談の終わりに、ヨンヒは詩集とタンブルウィードを彼に渡し、彼の小さな詩集をもらい帰って来たのである。

ヨンヒの兄は4月の終わりに亡くなった。

そういう流れの中の一コマであることもあり、ヨンヒはその日の事を語りたがらない。僕もこの話をどう終わりにすればいいのかまだ思いあぐねている。「どんなことがあったにしても、日本から自分を訪ねてきた者へのそれが・・」ということが立ち現れてしまうのである。

実は、彼からもらった詩集はその形状からして興味深いものなのである。また、ヨンヒの兄の葬式の合間に立ち寄った、韓国最大の書店の詩のコーナーには、複数の訳者による4種類の「星の王子さま」がそれぞれ平積みになっており、そういうことも興味深いことである。 

詩をめぐる風のようなものがあるとすれば、今回の物語は韓国のそういう風の中でこそ生まれたものなのであろう。どこかで、思いあぐねのところは整理したいと思っている。

ちなみに、彼が言うには、渡した詩集が店頭に並ぶことはないとのことである。

韓国の不思議な風に吹かれて、どこか、意味のある所に届けられれば幸いである。 (5/31)

 

ウルトラマン坂   

       大城 定 

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私の住む町に、私が勝手にウルトラマン坂と呼んでいる坂がある。

最寄りの駅から幾すじかの道が周囲の丘へとせりあがっているのだが、それはその中で一番こう配のきつい坂である。ウルトラマン坂と、なぜ名付けたのだろう。一気に駆け上がったときの高揚感のせいであったか。それとも、エネルギーが切れそうになると鳴りひびく、胸のシグナル音のせいなのか。

幼い時より電車を利用するたび、その坂を下り、また上ってきた。青年のころにはよくジョギングをして、トレーニングの仕上げとばかりにウルトラマン坂を一気に駆けあがった。壮年をすぎて、その坂は日々の健康のバロメーターになった。重ねられていく年齢を実感させられることもしばしばである。

夕暮れ時に偶然、坂の途中で古い友人の母親と再会したのはもう三十年ほど前。私がやっと社会に出て落ち着いたころで、肩を大きく上下させて上っていく、白髪交じりの女性の後ろ姿に見覚えがあった。小学生のとき、その友人の家に遊びに出かけたことがあった。声をかけると、彼女も私のことを懐かしく思い出して、息子は警察官になって一所懸命に働いていると自慢げにいった。還暦を迎えたと思われる身をスーツに包んで、大儀そうに足を運ぶ彼女の横顔。私は親ばかとは思えなかった。母親が家庭の支え手であったことを知っていたからだ。

同じころ駅からの電話で、私は仕事帰りの父に傘を持っていったことがある。そんなことはめったになかったから、その時のことはよく覚えている。坂を上りながら父が荒い息で継いでいく話は、私の将来についてであったように思う。外灯の下で、連なる傘の影が揺れていた。

さほど強い雨ではなかった。いつもの父なら、濡れて帰ってきてもおかしくはなかったかもしれない。今、当時の父の歳を少しこえてしまった私はウルトラマン坂を上るたび、そのときの父の気持ちをしばしば考える。(5/16)

 

天竜浜名湖線に乗って   

      宗田とも子 

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天竜二俣駅で降りて、最近知ったばかりの「秋野 不矩 美術館」に向かう。山に添うように歩いていくと、にこにこと話している喪服の人たちに出会う。美術館を尋ねると明るく途中まで案内してくれる。曲がり道で別れたのだが、大往生を見送ったあとだったのかもしれない。小高い丘を目指しカーブするたびに、こけら葺きの屋根が見え、漆喰の壁や小さな窓が模様のように現れる。こじんまりした館の入口で、靴を脱ぎ裸足になり代表作「渡河」を見つめる。夕陽に照らされるインドの大河をゆうゆうと渡って行く牛の群れを描いたものだ。 スコールの後には、泥水になり、暑さ、不潔さ、貧しさ等飲み込む河。変わらないものが変わっていくような、決して変わってはいかないような空間に包まれる。強く魅かれたのは「野を渡る」だった。サンダル履きで、おぶった子は、口を開けたままのけぞり眠っている。母とみられるひとは、希望も物欲も哀しみも人生に求めることなんて一切しない。ただあるがままの姿で野を歩いていくだけだ。ひとは、そうあるがままでいいのだ、と頷いていた。帰り道天竜川に、寄り添ってただ歩いた。(4/30)

 

ザゼンソウの秘密   

       鈴木正枝 

 

一か月ほど前、新聞に載っていたある花の写真に目を引かれた。一瞬何故か水芭蕉を連想したが、色も形も全く違う。両手を合わせてつくった窪みのような中に、びっしりと白っぽい点々がついた花軸のようなものが見える。全体は濃い赤紫色、むしろどす黒い。地面から直に生えているその薄暗い窪みのなかに、一匹の蜂。

ザゼンソウだった。仏像の光背に似た花の重なりが僧侶の座禅を組む姿に見えるというところから、この名前がついたようだ。群生しているところを想像すると、いやでも興味をそそられる。光背に似た花、といったが、それは苞で、それに包まれている肉質の厚い花軸にびっしりと並んでいる白っぽいのが花らしい。小さくて中には花びらのないものもあり、100個ほどにもなるそうだ。花は両性花だが「自家不和合」で、昆虫による送紛が必要とのこと。あ、それで仲の悪い雄蕊と雌蕊のための蜂か、と納得する。

一月下旬から三月の開花期には、この内部は発熱して25度にもなり、悪臭を放つという。昆虫をおびき寄せ、受粉の確率をあげるためだ。海外ではスカンクキャベツと呼ばれているほどで、日本でも有毒植物の仲間に分類される場合もあるらしい。こうなると、仏像の光背、僧侶の座禅という外観との落差に、ますます興味が増す。新聞の写真には、「秘密の入り口」というタイトルがついていた。秘密の入り口はニンゲンにもたくさんある、同じくらい出口も。(4/15)

 

薄いはなびら   

       河口夏実 

 

バスのなかから一分ほど桜が咲いているのが見えた。今週末は気温がすこし下がる予想だからこのまま堪えるように蕾を保ち、来週なかばくらいになればみるみると花を膨らませ、青空の下に散っていくのだろうか。

えばここ数年、お花見ってしていないなと思う。人ごみが苦手だし休日になれば寝坊をしてすぐ一日が過ぎてしまう。でもバスに乗り電車に乗っているときにすり抜けていく満開の桜のなか、市役所の辺りから薄く後ろの方へ広がってゆく桜、スーパーの入り口の近くに植えられた桜も満ち満ちていて、そのうちに雨にまみれ、日常のなかで消えさってしまうが、どこか淡い色合いの記憶のような感じもして、それはそれでうつくしい風景だと思う。

もう十五年くらい前のことだが、金属の材料を開発する研究所で働いていたことがある。サイコロの形に切り出した金属を樹脂に埋め込んで固め、回転する研磨機(ヤスリが貼られている)に押し当てて、ぴかぴかになるまで磨く。金属の断面を観察するための作業のひとつだが、慣れないと研磨機にたちまち弾き飛ばされてしまって天井にぶつかり床に転がり落ちてくるものを呆然と見つめてもう一度やり直す、といった有様である。でも熟練したおじさんたちなら瞬く間に磨きあげることが出来た。そんなすごい腕前を持つおじさんたちのことをひそかにゴッドハンドと私たちは言ってふざけあっていた、どこか気の合う人たちだった。こじんまりした職場で相模川が近く、鳥とか小さな生き物がどこからか紛れ込んできて見え隠れする。ゆるやかに時間が流れていった

 この季節になるとふしぎと思い出すのは相模川沿いの桜だ。仕事が終わると防寒着を台車に積みあげて運び、コロッケと焼売をたくさん買ってお花見にゆく。今は整備されてしまって姿を変えているかもしれないが、ほんとうにきれいな桜のなかに私たちはいた。まだ誰も通り抜けたことのない道の、生まれて初めて見るような桜、冷え込んでくるとさらに花を白くさせ山ひとつが動いているように見えた。越乃寒梅が回される私たちは花のお客になり、ずいぶん遅くまで座り込んでいた気がするが、私が帰ってからアキラ君が酔いつぶれてしまって台車で寮まで運ばれたという話を、しばらくして誰かから聞いた。(4/1

 

植物からの染色   

       柴田秀子 

 

 寒に入り、ほどなくして桜の弱い剪定をはじめたと聞く。ここ数年、桜の蕾がついたままの枝をいただいたが、その年によって蕾の姿、形が異なるのは面白い。

 ことしは河津桜をいただいた。ちょっと見える蕾の先端は既に濃いピンク色、小枝が多く、それぞれ蕾が隙間なく付いている。咲く前に染めたいところだが、やはり咲く花も見たいという欲が出た。庭の水ガメに入れ休息してもらった。今回染めたい二種類の絹糸と道具類を揃え、準備は済んだ。

 植物を染める時は私の「やすらぎタイム」だが、体力、好奇心、おどろき力を確認することも忘れない。

 染めるまえに目を通す『ウールの植物染』(寺村祐子著)ウールは明治初めに日本へ移入されたらしい。扱い易い材料であったことから広まった。

 一九七十年代のオイルショックは、合成染料の製造にも支障をきたしたので、染色を学ぶ人に影響を与えた。そこで染色本来の身辺にあるものから色をいただくことにもなったらしい。

 紫貝、苔、地衣類、茸などは実に濃い色をもつ。これらは台所でちょっとというには難しい場合もある。それは「発酵」「補助剤」などの扱いかとおもう。

 能舞台の背景になる大きな松の木には「ウメノキゴケ」が描かれている。現在は木に菌を植え込むことも可能。面白いと思う苔の名は「マツゲゴケ」、睫毛の形をして、匂いが良い。ハリスツイードの一色につかわれている。

 茸類は食べることにばかり親しんでいるが、スウェーデンの森の茸は数十色を見せてくれた。そのなかでも赤系は美しかった。

  古代から日本で染色につかわれてこなかった植物の一つに「ユーカリ」がある。千種類あるなかの一つに「シネリア赤系」がある。現在植栽されている東京夢の島へ、いつか出掛けたい。(3/15

 

平常日課   

       若尾儀武 

 

 今年の我が家のお正月は、まったくの平常日課であった。したがって、昨年暮れから正月の準備らしいことは一切しなかった。普通に起きて、毎日することを普通にして、普通の時間に寝た。年が改まっても、普通に朝食をとり、昨日と同じように午前中にすることは午前中にし、午後にすることは午後にした。カレンダーと日めくりは取り替えたが、何らかの意気込みを持ってしたかというとそうではない。1月1日を数えられないからそうしたまでのことである。

 なぜそんなに迄も何もしないことにこだわったかと真正面から問われると、いささか口ごもる。といって、何もなくそうしたのではない。原因は新聞の折り込み広告である。20日を過ぎた頃から、これでもか、これでもかと言うほど広告が増えた。例年の恒例行事とやり過ごせば何でもなかった。しかし、昨年暮れは、私自身も理由が分からないが、広告の隙間に世界を飢えて歩く子どもの姿が見えたような気がしたのである。とたん、過剰に供せられた食卓に嫌悪感を覚えた。

 平常日課!

 ただ、早めに張り替えておいた障子だけがやたらに白かった。        (2/15