回想、身の回りのこと、芸術あれこれ2018(上) 

 

たなばたさま 

       冨岡悦子

 

 ひさしぶりに七夕の短冊に願いごとを書いた。職場のミーティングで色紙が一枚ずつ配布され、「英語で願いごとを書いていただけますか」という声が聞こえた。七夕といえば、すぐに思い出すのは「たなばたさま」の短い歌だ。「ささのはさらさら 軒端に揺れる お星さまきらきら きんぎんすなご」の締めくくり、夜空の星を「金銀砂子」と名指すところが素敵だ。2番目はしりとりのように、「ご」から始まり、「五色のたんざく わたしがかいた お星さまきらきら そらからみてる」となって、地上の「わたし」は「お空」に見守られている。「たなばたさま」はすっと歌える身近な曲だが、あらためて諳んじてみると、宇宙との交信が描かれたスケールの大きな詩だ。 空の星にいま願うならと思って、その場で「NO ART NO LIFE」と黒いマジックで書いた。タワーレコードのキャッチコピー「NO MUSIC NO LIFE」をもじったわけではなく、芸術のない人生なんて生きていたくないと思う。

  その翌日「たなばたさま」の詩の作者が気になって、調べてみた。権藤はなよという1899年生まれの女性である。最初に掲載されたのは、昭和16年(1941年)刊行の国民学校初等科2年生用の教科書らしい。このおおらかな詩は、国家総動員法が公布され、経済制裁を受けて日本が太平洋戦争に向かう時期に作られたことになる。1925年制定の治安維持法が全面的に改正強化された年でもある。思想弾圧の空気があれば、五色の短冊に書けることはおのずと限られる。かりに「PEACE FOR ALL」と書けば、告発されただろう。この歌には、せめて子供たちの夜空が平穏であってほしいとの祈りが込められていたのだろうか。(6/30)

 

韓国ということ 

        立木 勲

 

 私のかみさんは韓国で生まれ、今、私の妻であり、私はそんな妻の詩ばかり書いている。だから韓国というのは、私にとって特に意味深い国であるというのが私の誠実な在り方だろうと思う。

 今、北朝鮮は米国と、国と民族の将来をかけての交渉を行っており、韓国はその間で交渉の舞台を作ってきている。言われるように、米国と北朝鮮の間で戦争になれば、核兵器によらず通常兵器でソウルは火の海になり、多くが焼かれて死ぬことになる。そして北朝鮮はこの世から消えてしまうだろうとも言われる。だから戦争を起こしてはいけない。どんな犯罪もどんな不利益もどんな人権侵害も戦争より悪いものはないと、私達は当たり前に考えなければいけないはずである。それが隣の国の今である。

 このエッセイの場で、私は韓国で一人の若者が作った「詩の専門書店」の話を書こうと思っていた。

 けれども韓国と北朝鮮の今をまずは書かねばいけないと思っている。このことを書き、隣の国の人々の置かれている状況に心を痛めなければいけないと思っている。「戦争になれば日本も甚大な損害を被るだろう」という処とは違う処で。

 そうして私の書く詩はやはり妻の事かもしれないけれども、私はひりひりと痛む心を抱え、その詩は痛む心が深いところで滲むようでありたいと思っている。(6/17)

 

静かな庭 

      大城 定

 

 ずいぶん前の話だ。

 私は暇を見つけては、空き家になった実家に通っていた。

家のなかの片付けに精を出すのだが、時間が止まっているように感じられてならなかった。そのとき庭を見て、冬が終わっていることに今更のように気がついた。荒れた庭だった。庭がかわいそうな気がして、その片隅で何か育ててみようと思った。

育てた結果が形になるものが良かった。たまたま近くの店に、オクラの苗が売られていた。買い求めて植えると、猫の額ほどの菜園ができた。日が長くなるにつれ、やがて薄黄色の大ぶりな花が咲き、最初の実を宿した。やっと時間が動きはじめたようだった。オクラの実はちょっと目を離したすきに、すぐ大きくなって皮が硬くなる。そうなると、いくら茹でても食には適さない。休日や仕事の帰りに、毎日のように通った。片付けの手を休めては庭に出て、オクラの林に身をかがめた。

オクラは私の腰の高さほどに成長した。私はためしに寝そべって大きな葉の下に入ってみた。まるでジャングルのように幾枚も重なる葉が頭上を覆い、その隙間から陽の光が差しこんでいた。背中を草がチクチク刺すのもかまわずに、私は一匹の蟻のような気持になった。熱帯の樹木と化したオクラを見あげると、そこへオンブバッタが跳びはねてきた。小さなオスのバッタがしっかりメスの背中にしがみついている。下葉に乗って、階段をのぼるようにさらに大きな葉へと上がっていくようだった。手前にずんぐりとした太い枝が突きでていた。そこに、つがいの二匹が体を向けている。さあ、一、二、の三で肢を勢いよく伸ばし跳びうつるのだ。だが、どういうわけかじっとしている。葉影の上を、涼しい風が柔らかく流れた。と、その瞬間、ふいに枝が二股に伸びて、オンブバッタを捕らえた。

むしゃむしゃ食べる音がいやに大きく聞こえた。メスのバッタが食われている間、その背中にいるオスは何もできないままだった。動こうとしないその小さなバッタを、私は見つめていた。メスの頭部が巨大な口のなかに消えたとき、オスが一歩踏みだして身を捧げるように見えた。三角形の貌が右に左に傾きながら、そのつがいを食い尽くしていった。

私は身を起こし、ジャングルに囚われていた視線を蒼空に放った。あたりは静まり返っていた。光が溢れ、眩しかった。

その年の秋、私は庭の笹竹の間にカマキリの卵を見つけた。家のなかはすっかり片付いていた。私は慣れ親しんだこの家で、新しい生活をはじめることを思い描いた。(5/31)

 

天気予報について

     宗田とも子

 

 新聞で真っ先に見るのが、天気予報だ。当日の予定が、バスに乗るか送ってもらうか上着を着るか否か、優柔不断なりに決める時間だ。道路も雨ふりだと混むのである。早く行くか否かも決めなければいけない。晴天でもJRの駅につくとポイント故障でなぜか半日不通なんてざらにあるので、油断できない。ニュース番組では、洗濯日和だとか、傘を持った方がいいとか、キャスターが真面目に話すのにうんざりしながら自然界はあてにならないから勘が大事とつぶやくのである。先の戦争時には、天気予報は、重大な戦略情報で一般の国民には一切知らせなかったとのこと、予報官の職務にありながらも午後に迫る台風の予報を家族に伝えることができなかった話を思い出す。だから予報が正しいのかしらと思うことも大事、今この星で毎日晴れているとうそをつく人種もいて、遠くから近くからうそ寒い風が毎日吹いている。(5/15)

    

「踊る」  

       鈴木正枝

 

 もし、今一番好きな言葉は、と問われたら、次のように答えると思う。

「脅かされず 踊らされず 踊る」国際政治学者秋野豊氏の言葉だ。

1998年、氏は国連の停戦監視団に政務官として参加、内戦の続くタジキスタンで、平和維持活動中に反抗政府武装勢力によって襲撃射殺された。享年48歳。当時この事件は何度もマスコミに報道され、氏の生い立ちやその温和な人柄なども記事になったが、その中にこの言葉を見出した時、私は不思議なほど心を引きつけられた。勿論秋野氏の名前を知ったのはこの時が初めてだったし、それ以前も以後も世界各国では凄まじい戦闘が繰り返され、数えきれない命が失われているのも事実である。 

 この言葉は、極めて危険な政治的任務遂行という、特殊な使命感から発せられた言葉であることは確かだろう。が、例えばそれを抜きにしても、人の生き方に関わる揺るぎない普遍性を含んでいるように思われる。恐れながら私個人に引きつけて考えてみると、「脅かされる」ということはどうだろうか。真っ先に思い浮かぶのは、自分が自分に脅かされる、ということだ。それ以外は多分しっぽを巻いて逃げてしまうだろう。しかし「踊らされる」ことのなんと多いことか。ただ気づいていないか、気づこうとしないだけか。気づいていても踊らされることは往々にしてある。そして自ら「踊る」ということ、それは、その困難さと同時に、だからこそ踊ることへの限りない切望と魅力をかき立ててくれる。不可能とは知りながら、踊らされないで踊りたい、と思う。どんなに下手でも。

 今年は秋野氏が逝去されてから20年目、どれだけ多くの人々が踊っているだろうか。(4/30) 

 

おまじないのように   

       河口夏実

   

 ウッディ・アレンの『ハンナとその姉妹』を見ていると、その物語にながれている音楽につい魅せられてしまう。

秋が深まるころのニューヨーク、廻りくる感謝祭の家族のパーティーで歌われる

Bewitched, Bothered and Bewildered”はエラ・フィッツジェラルドやサラ・ヴォーンもそれぞれに豊かな味わいで歌っていて、先日アマゾンで買った

ジュリー・ロンドンのアルバムにも入っていて嬉しかった。

まるでおまじないを唱えるように優しくてながいそのタイトルの意味を辞書で調べたわけではないけれど、

「今日、魔法にかかるようにあなたとばったりと出会った。その先にある古い本屋まで歩き、落ち葉の降りしきる音に耳を澄ませた。カミングスの詩の一部が余りにもうつくしくて口にだす夜、テーブルのバラは開き、部屋にいる私を照らす。静かに路面は濡れていた。雨が降っていたことに気がついた」とでも訳したくなる。

それにしてもウッディ・アレンの映画に出てくる人たちって、くよくよと悩みながらも人生を楽しんでいるようにも見える。

バーバラ・ハーシーの着るダッフルコートが素敵だし、ウッディ・アレンが演じる人は病気恐怖症で聴力の検査、でもとても魅力的で可笑しな会話がとりとめもなく続いて、車が途切れるときは道路を渡り、映画館の近くはポケットに手を入れて

うろついていたり。(4/15)

 

 

       

スリングと抱っこひもとおんぶひも  

        柴田秀子

 

 若いお母さんたちが、赤ちゃんを抱くのに不思議な布を使っている。この名称を気にして十年余りが経つが、まだ気になっている。

この広巾の布の正体は、男用の三尺帯を広げると出来る深い窪みに赤ちゃんがいるような、ちょうどハンモックの中にいる安心な状態。そのうえお母さんの鼓動が聞こえ、赤ちゃんにとって最良の所、「第二の子宮」と呼ぶほどだ。この帯の名称を「スリング」というらしい。重いものを吊るすという意味があるから、ほんとうに命の重みを感じることができますように。愛用者は購入するもよし、手づくり講習もあるという。抱っこひも、おんぶひも、子守帯、もっこ・・・いえいえ「スリング」でした。

やわらかな赤ちゃんを守るのに、昔々も工夫があった。子の着物の背に魔除けの「背守り」を付け、縫い取りもした。当時のお母さんが立ち働くとき、赤ちゃんは大抵背中にいた。春は白い布のケープ、夏はレース、秋は亀の甲、冬はねんねこを着せ掛けた。長女が生まれたのは夏だったが、早くも、冬のことを心配していたのは母。雪国育ちの故か「やっぱりねんねこがないと」と言いながら、若い頃の着物をほどきにかかった。こうして子育てになくてはならないものの一つになった。

ところで、日本製のスリングは京友禅や近江麻手もみが使われ、好評らしい。蔵いこんでいたねんねこをそろそろ私用の綿入れ袢纏につくり替えよう、まるっとくるまれたいのはうすい背中かなと思いつつ。(3/31)

 

ある絵について  

       田尻英秋

 

ある日、東京で行われた美術のイベントに行った。そこは各地から集まった画廊が絵画、骨董を売買するイベントで、お金持ちのバイヤーが取引しているようなところだった。ふらふらと会場を見ていると、ある一枚の絵に出合った。難波田龍起の絵だった。一面が深い青色一色の絵だが、深海のように青が揺らいでいた。以前、難波田龍起の評伝を読んだことがあった。タイトルが『青のフーガ』と云うものだったが、正にタイトル通りの絵であった。私は度々彼の展覧会に行ってきた。以前北海道に住んでいた時、旭川美術館に観にいったのを皮切りに、世田谷、東京のオペラシティ等々、展覧会を見かける度に行っていた気がする。息子の難波田史男の展覧会も観に行ったことがある。評伝では息子の史男の死をきっかけにして、作品が深い、静謐な境地に達したとのことであったが、作品を観るとさもありなん、と思えた。絵のお値段は自動車が一台買える位であった。本当に自分にとって価値があるのなら、自動車一台分だろうが家一軒分だろうが万難を排して買うべきだろう、とは思うのであったが。話かけてくる店員に、失礼しました、と挨拶してその場を立ち去った。ああ自分にジェフ・ベゾス並みの資産があったならば。(3/15) 

 

身辺  

      若尾儀武

 

 ちょっとした段差に躓いてよろけた。(こら)えようと思えば堪えることができたが、変に力んで無理をするよりは、と思って倒れた。が、倒れてみれば随分情けない格好だった。今年の正月明けのことである。

  考えてみれば、二十過ぎから今まで五十年間、まともに歩いていない。仕事をしていた四十年間はもっぱら車通勤だった。しかし、退職して移動範囲が狭まると、車はむしろ不便な乗り物になった。そこで、自転車に乗り換えた。自転車は手軽さから言っても、スピードから言っても日々の用を足す移動手段としては最適だった。十年乗り続けた。

 それが、正月明けのざまである。脚を疎かにし過ぎてきた。私は思い切って歩くことにした。とはいえ、出で立ちを整え、歩くことを目的にしたような歩き方には抵抗があった。あくまで、今まで自転車に頼っていた範囲を歩くこと。それを自分のルールにした。

 歩くことを始めて三カ月近く。身体上、精神上、何が変わったか、まだ分からない。ただ、寒い中、歩いているとゆっくりと体がほこほことしだすことに不思議な快感と満足感を覚えている。歩けば体が温かくなる、それは自明の理である。しかし、その温かさは、どうもそうした物理上のこととは異なるもののようである。

 痩せ我慢がなせる発熱か、それとも、もう少し違ったものの熱か。十年は歩いてみようと思う。そして、十年後、もう一度考えてみようと思う。(2/28)

                 

水脈探し  

      冨岡悦子

 

 水脈を探すのに、ダウジングという不思議な方法がある。L字型やV字型の木の枝や振り子を使って、地下の水脈を探り当てるのである。ボーリングの専門家からすれば、迷信に見える詐術なのかもしれない。地質を調査した上で、ボーリングマシンで水脈に届くまで穴を掘る方法はたしかに合理的だ。岩盤にぶつかった場合は、別な穴を掘るらしいが、ダウジングに較べるといかにも粗暴な感じがする。

 水脈探しをする父を描いた映画に、『エル・スール』がある。スペインのビクトル・エリセ監督が撮った三十年以上前の映画だ。医師を職業とする父親は、金属の錘のついた振り子を持っている。幼い一人娘は父から、この振り子の使い方を屋根裏部屋で習うのである。「肩の力を抜いて、頭を空にして」という父の声に従うと、振り子がゆっくり回り出す。暗い屋根裏部屋に振り子の鎖と円形の錘が鈍く光って、少女の真剣な表情が浮かびあがる。

 フェードアウトを多用するこの映画で、屋根裏部屋に続く場面は冬の草原である。父と娘が前後に立ち、少し距離を置いて二人の男が見つめている。V字型の木の枝を持って父が歩き、娘は静かにそのあとを歩く。父が立ちどまって片方の手で振り子を掲げ、もう一方を後ろ手にすると、娘はコインを次々に渡す。振り子が回って静止したところで、娘は父の前に回って腰を下ろし、コインの数を数える。コイン八枚は、八メートル掘れば水脈に届くことを示す。ここまでの父娘は無言のまま、近寄ってくる二人の男に父が数字を伝えるところで、映像はまたフェードアウトする。

 時間にすれば数分にすぎないこのシーンを思うたびに、心が揺さぶられる。水脈探しをした経験があるわけでもない。スペイン北部の冬の草原を歩いたことがあるわけでもない。だが、強い既視感があるのだ。大きな背中を見つめながら、息をひそめて何かが起こるのを期待すること。無言のままの共同作業が進んで、小さな奇跡が生じること。密かな、ささやかな奇跡を、私もどこかで父から手渡されている。目に見えない振り子が、私の言葉の中で今も揺れている。(2/15)