回想、身のまわりのこと、芸術あれこれ2020(上)

 

2020年初夏の日常  

        佐藤 恵

 

 古い木造の建物が残る港町で暮らしている。車の通らない路地を抜け、石段を下り、海岸沿いを歩いて通勤する。互いにゆずりあいながら通る狭い道が多いからか、ここでは誰とでも挨拶をしてすれ違う。

 ちょうど朝のゴミ出しの時間ということもあって、石段を下りる手前のお宅から出てくる小柄な白髪の女性とは、毎朝のように顔をあわせる。「おはようございます」。最初はそれだけだったが、ある日「行ってらっしゃい」という言葉が、通り過ぎた後に聞こえてきた。振り返って「行ってまいります」と応える。またしばらくすると「気をつけてね」と言ってもらう。「ありがとうございます」。会話が増えるたびに情が深まっていくのを感じながら、石段を下りる。三日間ほど姿を見かけなかったときには「一週間も会えなかったね、元気だった?」と声をかけられる。お互いの姿を見て、私たちは安心する。顔をあわせるだけのご近所さんは、笑顔も優しい。

 さて、ようやく営業を再開した弁当屋の店先には、「氷」の旗が吊るされた。湿度も高くなるこれからの季節、一見のどかなこの町の古い家では、小さな侵入者と出くわすことも多くなる。ひょうきんなハエトリグモは同居人と認めているが、蟻の行列には閉口する。

つい先日は夜中に、黒光りするムカデが畳の上にいるのを見つけ、足がすくんだ。ムカデに罪はないが、就寝中に体の上を這った跡がミミズ腫れになって発熱したという話を聞いてからは、家の中に潜んでいると思うと落ち着かない。ムカデは石で叩いても、びくともしないと言う。そこで胸の鼓動を抑えながら殺虫剤を取りに行き、おそるおそる吹きつけた。ムカデは走り回って姿を消したので、その晩、気が気ではなかったが、翌朝くたりと動かなくなっているのを見つけてほっとした。そして、ああ、「目に見えるもの」の怖がり方なら知っているのだと、しみじみ思ったのだった。見えないものへの漠然とした不安をつのらせながらも、実体が掴めず手探りで立ち向かうような日々に疲弊していたのだ。見える相手ならば、狙いを定めることも逃げることもできる。

 ムカデに噛まれたときの特効薬として、生きたムカデを油に漬けて塗り薬にするとよいと教えてもらったが、その「ムカデチンキ」なるものの作る過程を想像しただけで、とても実践できそうにない。 (6/30)

 

水の旅    

                冨岡悦子

 

  逃げ込む場所が必要だ。外出自粛を促され、電車にもほとんど乗らなくなり、パソコンを相手の仕事時間が一日の大半を占めるようになった。オンライン会議という名の集会は、操られる感じがあって慣れることができない。四週間続けるうちに、時間の軸がグラグラになってきた。

 日の出とともに起きる習慣だけが、身体に残っていた。逃げる場所を探さないと、まずいなと思い始めた。水の流れるところに行きたい。テレビは、湘南の海に来ないで下さいと語る県知事の姿を映し出している。遠浅の海に行きたい気持ちは私にもわかる。私は本箱から、近藤ようこの漫画『五色の舟』を取り出して、逃げ込むことにした。

 目次と対になった見開きに、五色で描かれた空と水と一艘の舟が描かれている。黒枠の中に、水彩絵の具の赤と黄と緑と青で、空と水平線が薄く塗られ、小舟が墨色に塗られている。手前の水の色に墨色が混じっている。左上に、「こちらの世界の かりそめの自分が死んだら また心があそこへ戻っていく」と書かれている。

 次のページには同じ五色が濃くなって、近藤ようこの大胆な線描が、たなびく布と腕のない少年を描き出している。横向きの上半身の少年とその影は、濃い墨色だ。右上には、「色とりどりの 襤褸をまとった あの 美しい舟の上に」と書かれている。何度も読んで、話の展開はわかっている。読み返すたびに、ここから水の旅を始められる。

 二〇一四年に刊行された漫画『五色の舟』は、津原泰水の小説が原作だ。戦時下の見世物小屋で生きる少年と家族の物語だ。原作では、爆弾で消えるはずの都市と表現されていた。漫画ではそれを「産業奨励館が原爆ドームにならなかった世界」として描いたと、作者の近藤ようこは「あとがき」で書いている。

 近藤ようこの線描を眺めていると、身体の軸に水の流れがよみがえる気がしてくる。点と点をつなぐ線に迷いがなく、虚ろなものに美しい輪郭が次々に与えられてゆく。点と点をつなぐ線は、ほれぼれするほど頼もしい。強靭な線が紡ぐ物語の中で、私はいつしか巧みな泳ぎ手になっている。どんなに水が深くても怖くない(6/15)

 

『アマンダと僕』と僕  

       立木 勲

 

  この文章がサイトに掲載される頃はまだコロナウィルスによる緊急事態宣言が東京・神奈川では続いているだろうと思う。そして僕はテレワーク(自宅での仕事)を続けているだろうと思う。今、自宅で仕事をする僕の手元には、『コロナショック・サバイバル』― 企業は、個人は、どう生き残るべきか。史上最大の経済恐慌を、必死で回避せよ。―(富山和彦)という本があり、その傍らに、『ねじまき鳥クロニクル』(村上春樹)が付箋を付けられ開かれている。そういう時間の中で、僕は『ドン・キホーテとなってヨンの世界に出かける』という詩を、長い時間をかけて作っている。

 そんな日々の合間に開いた昔のメールの中に、こんな一節がある。「詩は なぜあなたは生きているのか の問いであり、生き方なのだとあらためて 確認しているところです。私には一番困難な問いでもあります。先日、DVDで『アマンダと僕』を観ました、哀しみの表現が、美しくて こんな詩が書ければと思ってしまいました。」

 僕の歩いているところは、ごつごつした岩が転がっているようなところであれば、その中で作られる詩は、多くの人にとってあまり意味があるとは思われない。そうであればなおのこと、今、同じ空の下で、彼が彼固有の課題に向き合い生きている中で、彼が『アマンダと僕』に見た哀しさが、言葉となり、詩となり、色々な意味で問い返しがされるであろう次に来る日々において、私達の歩く道を、いつか、深く暖かく照らしてくれることを遠くから願うのである。 (5/29)

 

サンドウィッチ   

        多田陽一

 

  『タンブルウィード』七号に書いたが、一年ほど前、横浜の港近くをさ迷うように歩いた。その道中で偶然あった、ささやかなこと。

  午後二時をまわったころ大岡川から中村川へと歩き疲れて、とある総合病院のそばにあるカフェに立ちよった。客のまばらな店内で一息ついていると、車いすにのった老婦人をつれて、一人の女性が入ってきた。還暦ほどにも見えた女性は、わたしのテーブルの真向かいのテーブルに婦人を着かせると、てきぱきと注文を済ませて戻ってきた。

  わたしと向きあうかたちで坐った彼女たちの会話が耳に入ってくる。「ロビーの花がきれいだったね」「次は薬だけとりにくればいいね」。二人は頻りにうなずきあい微笑みあい、目の前のサンドウィッチを美味しそうに口に運んでいた。きっと、病院からの帰り道なのだろう。わたしはなぜか、付き添う人はヘルパーさんか、それとも親子の間柄であろうかと気になり始めて、そっと彼女たちの顔を覗いてみた。目もとがそっくりなのである。そのとき不意に、胸を突かれる思いがした。

  思い出されてくることがあった。両親に付き添った病院には小さな軽食喫茶があった。わたしたちは診察までの待ち時間に疲れ果て、その店で遅すぎる昼食をとったものだった。注文した品が早くくるように、頼んだのはいつもサンドウィッチ。親の身に進行する病と、そばにいて戸惑うばかりの、ふがいない自分のすがた。それらを影のようにまとう私たちのあいだで何が話されていたのか、長い時を経て細かなことは思い出せない。だが、今思えばそれは家族でほっとするひとときだった。霧が晴れるように、その時間が見えた気がした。

  やがて二人は身支度をはじめ、席を立った。わたしは店を出ていく彼女たちの後ろ姿を眼で追った。あのときの親子はどうしているだろうか。ウィルスが忍びよる日常で、介護する娘さんも、介護されるお母さんも心身をすり減らしていなければと思う。同じように耐えている、数多くの年老いた親子のことを思う。 (5/16)

 

被害者か加害者か   

        鈴木正枝

  

 答えは一目瞭然、被害者=加害者である。毎朝起きると、今日は大丈夫だろうかと熱を計る日常になってしまった。2020年、年頭からこんな状態がこんなにも長く続くとは、どれだけの人々がどれだけ予測していたであろうか。毎日報道される感染者数と死者数、日本だけの数ではない。世界各国の人々の数である。いやがうえにも不安が掻きたてられる。

 電子顕微鏡でしか確認出来ないほどの、この巨大な敵と戦うために、連日様々な分野の分析・統計結果、敵の実態、各国の対応指針、現状等が報道されているが、今だに先が見えないことが、さらに恐怖をつのらせていく。コメンテイターの意見も最初の頃とは、かなり変わってきたように思われる。敵も変化しているのだろうか。

 国民性の違いは言うに及ばず、国内でも個人あるいは世代・地域間の考え方がこうも違うのか、ということを痛いほど感じている。あの休日の海岸の人出、小さな商店街の混雑、パチンコ屋にならぶ車の行列に驚愕した。感染していても発症していないのだから、仕方がないのだろうか。無自覚無意識に何人もの人にうつし、間接的に死に追いやっていることにもなりかねない。自覚がないから自責の念もない。そもそも証拠がない、それにうつしている人自身がすでに被害者でもある。

 「〇〇さん、ごめんなさい、人工呼吸器はずしますよ、いいですか、すみません、ごめんなさい、ごめんなさい」もう意識の混濁している感染者にむかってそう言いながら、はずしている医療従事者の苦悩の映像を見たときには、胸をつかれた。生存率の高い別の感染者につけかえるためなのだ。

 私自身もう被害者になっているかもしれない、それどころか加害者としての一歩を踏み出しているかもしれない。そう思うと、外出しなければならない時は、びくびくしながら下を向いて自然と早足になる。

 もう五月、最も美しい季節。友人から毎日のように不安なメールが届く。「生き残れるか、誰にもわからないね。」(4/30)

 

『シングル・マン』   

        河口夏実

  

 RCサクセションの『シングル・マン』は、繰り返し聞いてきた私の好きなアルバムのひとつです。RCサクセションは日本の有名なロックバンドですが、すこし補足させてもらうと、忌野清志郎がリーダーでボーカル、すこしメンバーの入れ替えもあったと思うのですが、仲井戸麗市(ギター)、新井田耕造(ドラムス)、小林和生(ベース)Gee2wo(キーボード)、小川銀次(ギター)、破簾ケンチ(ギター)、ざっというと、このようなメンバーで活躍しました。

 『シングル・マン』はRCサクセションの初期のアルバムで、一度廃盤になったのですが、数年後に「こんなに素晴らしいレコードを廃盤にしていて申しわけありません」というフレーズと共に再発売された名盤です。忌野清志郎というと、過激な衣装で、お化粧をして髪を逆立てているイメージを持つ人が多いと思うのですが、『シングル・マン』が作られたのは清志郎20才のとき、YouTubeにもアップされていますが、ビートルズのようなマッシュルームカットの、まだとても若い清志郎です。

 私がRCサクセションを知ったのは高校生になってから。ライブハウスで活躍をしていたのがじわじわと世の中に知られるようになり、『BLUE』『PLEASE』『BEATPOPS』などのアルバムが次々ヒットしていったRC黄金時代に差しかかったころでした。清志郎の歌い方は本当に独特で、アルバムの始まりから終わりまで聞かせる、人を引きずり込んでゆく魔力がありました。

 なぜか当時、RCサクセションが好きって大きな声では言えないムードがあったように思うのです。それは清志郎の過激な言動ではなくて、清志郎が持っているとても静かなところ、孤独感に共感している自分がいる、仲井戸麗市が前に音楽雑誌のインタビューで、「RCが好きな子って、学校でもちょっと、はみだした子じゃないかな。僕たちがそうだったように。」と言っていたのが心に残っています。

 『シングル・マン』は胸にグッとくるバラードが連なっています。なかでも「夜の散歩をしないかね」という歌が私はとても好きで、清志郎の歌にはよく月がでてくるのですが、ここでも満ち満ちた月が現れて、口笛が夜の道を横切っていきます。そういえば先日、清志郎がはじめて夢に出てきて、昔から知っている人のように親しい感じでそこにいるのです。

 私もお礼を言いたかったのですが。大好きでしたと、伝えたかったのですが。(4/16)

 

青梅の織物   

                 柴田秀子

 

 「Ome Blue・青梅ブルー」を次世代に伝えようと、ロゴを作りイベントを開催していることを知った。そのつながりから青梅郷土博物館企画の「青梅の織物展」に出掛けた。

 この地を深く知っていなかったが、旧石器時代から人は住んでいたらしい。この時代を「岩宿時代」と呼ぶことを知って、創史期から拓けた理由の一つに「多摩(麻)川」の豊かな水量があったのではないかと合点した。

 青梅の織物は江戸時代後半に青梅縞(嶋)が織り出され、反物として縞市が立ち盛んになったようだ。此の頃のエピソードとして師岡村の名主の娘・吉野みちの手紙の存在が面白い。江戸城の御殿女中として奉公をしていた当時、青梅縞を同僚の奥女中に売り渡し、小遣いにしていた様子が母への手紙で判る。

 明治時代に入ると粗製濫造や大戦のために衰退し、その後は夜具地として生まれ変わった。色は藍草や木の根から染め出し、柄は大きく派手にみえたが、閉塞していた時代の空気を割って、元気を求めたということかもしれない。

 昭和25年頃、蒲団類は各家々で祖母、母を中心に子供が手伝う光景が多くあったように記憶している。蒲団の綿入れの日には「青梅綿」の紙包みを解き、畳まれている綿をじっくり眺めている母の姿があった。

 今回、実物展示として夜具地が数点あった。どの柄もみな、映画や本、ポスターに登場していたものだった。子供読本の「路傍の石」「三太物語」にも記述があったと思う。 

 織りをする農家が使っていた道具の展示は圧巻だった。中でも蔟折機(まぶしおりき)は珍しい。

 博物館の立地は遺跡が広く分布した所で、古い樹々は良く繁り、川の水量は多く流れは速い釜の淵公園の中にあった。(3/31)

 

能「山姥」について   

        田尻英秋

 

  つい前のことだが、国立能楽堂に能を観に行ってきた。かねてから能には興味があったが、以前一度観に行った時つい居眠りしてしまったことがあり、とっつきにくい印象を感じていた。しかし「山姥」という演目に興味があったので再び行ってみることにした。あらすじは、百ま山姥と呼ばれる、都で山姥の山廻りの曲舞を上手く舞って人気を博していた遊女が、善光寺詣を志し信濃国を目指して従者とともに旅をする途中、越中越後の国境にある境川で出合った年嵩の女と出会う。女は自分こそが真の山姥で宿を提供する代わりに山姥の曲舞を舞って欲しいと訴える。夜になって真の姿になった山姥は自ら山姥の舞を見せ、深山幽谷に日々を送る山姥の境遇を語り、仏法の深遠な哲理を説き、いずこかへ消え去っていく……

 

 能はこの世での想いや未練を持った死霊、あるいは生霊が前シテでは仮の姿で現れ、後シテで本当の姿となって想いを訴えて消えていくのが一般的なパターンだが、この演目では「山姥」という超自然的存在が仏教の真理を語って消えていくというのが異色だと思う。決して人間に害悪をなす存在ではなく、むしろ「樵路に通ふ花の陰。休む重荷に肩を貸し月もろともに山を出で。星まで送る折もあり。また或時は織姫の。五百機立つる窓に入って。枝乃鶯糸繰紡績乃宿に身を置き人を助くる業をのみ。(山道の花陰に休み山の木こりの担う重荷に肩を貸し、月の出とともに山を出て里まで送る。またあるときは機織り娘がたくさんの織機を並べた部屋の窓から入って、枝で糸を操る鶯のように糸を操り、紡績の家に身を置く。)」というように人々の益となっていることもあるようだ。

 

 「邪正一如と見る時は。色即是空その侭に。佛法あれば世法あり。煩悩あれば菩提あり。佛あれば衆生あり。衆生あれば山姥もあり。」と謡われている「山姥」とはどういった存在なのか。そもそもここでいう「仏法」とはどういった真理なのだろうか。だいぶ以前に善光寺に行ったことがあるが、また行って探ってみたくなってきた。

 

 ※( )内の口語訳は能楽ポータルサイト「the.comhttp://www.the-noh.com)」から引用 しました。(3/21)

 

土筆   

             若尾儀武

 

  今年こそ土筆を食べようと思う。

 毎年、そう思いながら、かなり注意深くカレンダーを見、川べりを歩きもしてきたのに、肝心かなめのところでタイムリーエラーをしてきた。ひょっとしたらそこが私の弱さなのかもしれない。だから、天の神様が、「土筆を食うにはまだまだ精進が足りん!」とおっしゃっておられるのかもしれない。

 しかし、食べたいものは食べたい。精進もへちまもなにも。だいたい、小さい頃、春になれば土筆なんか探そうとせずとも目に飛び込んできた。群れをひとつ見つければ、近くに次の群れ。五つも見つければ籠がいっぱいになった。といって、特段になにか精進を積んだわけではない。昨日も今日も明日も籠いっぱいの土筆をつんで。

 だから、春は母にとって受難の季節であった。袴とりである。私はこの地味な仕事が大嫌いだった。「土筆、採ってきたで」と言い残して遊びにいこうとする。そんな私をみて、「自分で採ってきたものくらい自分で始末しい」と咎めるのだが、なんせ不出来の息子、言っている途中でもういない。結局、母の仕事になる。

 ここまで書いてふと気づく。私のタイムリーエラーは、神様のものでなく母のものでないかと。さすれば、許し乞う方角が違う。

 「袴は自分でとりますからどうぞこの春はつくしを食べさせてください。」        (3/2)