回想、身のまわりのこと、芸術あれこれ2021(上)

 

 

 

好きなコマーシャルから

                        鈴木正枝

 

 最近はあまり放映されなくなったが、好きなコマーシャルがひとつある。といっても、スポンサーを忘れてしまったので、私にとってはコマーシャルにはなっていない。

学生時代の仲良し三人組が久しぶりに再会する話。その中のひとりが結婚報告にきたのだ。地元に残った二人と寄り添うようにして喫茶店で話し込んでいる。「結婚か!」「そういうことだったのね!」「いまどんな気持ち?」二人はいろいろ聞きたがるが、当の女の子は終始はにかみながら、やや俯いて何も言わない。そういえばこの女の子は最後まで一言も話さない。

場面が変わって、三人が制服の頃、下校の途中だろうか、広い原っぱに鞄を投げ出し、手足を投げ出し、頭をよせあって大の字に寝そべって、空を仰いでいる。「あの頃私たちは、私たちの青春は、このままいつまでも続くと思っていた」とナレーションが入る。

そして最後の別れの場面、反対側のホームで見送っているふたり。当の女の子は彼女たちの方は見ない。相変わらずはにかみながら少し寂しげな横顔をみせて、進行方向を見ている。まだドアは開いている。やがてベルがなり、ドアが閉まる瞬間、ふたりが叫ぶ。「帰ってくんなよー!」列車は事も無げに動き出す。これだけのこと。だが、この「帰ってくんなよー!」が私には妙に心に響いた。観るたびに、三人のくったくのない若い友情のようなものを感じてしまうのだ。

 最近ホームまで見送る機会というのも、ほとんどなくなってしまったが、交わされるのは、大概「また来てね」「元気でね」「また会おうよ」といった言葉だろう。「帰ってくるな」という言葉は、ある特殊な環境に置かれた場合でしか使われない。そしてそういう機会は、今はほとんどと言っていいくらいないと思う。だからこそこの「帰ってくんなよー」が、否定的な言葉ではなく、若い女性の、友を思いやる、ちょっぴりうらやましさも含んだあたたかい励ましの言葉になっていることに、多分心を動かされたのだ。かつての自分の過去も少しだけ重ね合わせながら。 (6.15)

 

 

 

星の下、アルマの灯よ

                        河口夏実

 

 むかし「アルマ」という喫茶店でアルバイトをしていた。カウンター席と、4人掛けのテーブル席がいくつか置いてある小さなお店だ。小さなお店だったが、モーニングやランチを気に入って通ってくれる人たちが結構いて、お茶だけ飲みに来る常連さんも多かった。「アルマ」というお店の名前は、作曲家のグスタフ・マーラーの妻のアルマ・マーラーからとったそうだ。芸術家たちのミューズだったのよ、ママさんがわたしに言った。アルバイト募集の貼り紙を通りかかる度に見かけて、思い切って応募した。

『青い鳥』のチルチルとミチルが夜の女王から鍵を借りて、次々に扉を開いていくと、幽霊やら戦争やら恐ろしいものばかりが溢れだしそうになって、慌てて扉を押し戻すという場面があったと思う。でも、「アルマ」のドアはただカラカラと鈴が鳴り、コーヒーの素敵な香りがお店のなかに立ち込めていた。パートタイムの人が何人かいて、夜は学生さんがアルバイトに来るからノートにローテーション表を作って書いています。伝言があったらこの余白に書いておいてね。「アルマ」で働く人たちはどこか人懐っこくて親切だったから、未知の世界に足を踏み入れた気分だったわたしもすんなりと溶け込んで、コーヒーの淹れ方を教わり、ホットケーキをむらなく焼きあげるコツを教えてもらった。そしてずいぶん上手く焼きあげる事ができる様になった。

日が暮れてくると「アルマ」の看板にぽっと、灯がともる。お店のなかがサフランライスのように染まって過ぎる、わたしの好きな時刻だ。有線放送をとおして音楽はずっと流れ続けて、そのときはサザンオールスターズが流れていただろうか。マイケル・ジャクソンが流れていただろうか。ラフマニノフのピアノ協奏曲に聞き入っていただろうか。

当時、絵を習い始めたわたしは、ぼんやりとした未来を形にしたくて、歩き始めていたのだと思う。パレットに絵具を置いて、水で混ぜ合わせ、しゃぼん玉のようにひかりで滲む空を見あげた。

アルマ・マーラーはひと時、クリムトの恋人だったそうだ。数年前に東京でクリムト展があって、思えばコロナが蔓延する前に見た最後の展覧会だ。照明を暗くした会場に飾られたクリムトの絵は恍惚として、まるで金の泡が立ち昇っているようだった。その時、ふいに「アルマ」のことを思い出したのだ。夜になると「星の下」というバイクのツーリンググループの人たちがやってきて、閉店間際までおしゃべりをしていく。どうして「星の下」と名付けたのか、楽しそうに彼らは語ってくれたけれど、どうしてもそれを思い出せない。そうして、混雑した会場を歩き進み、アルマ・マーラーをモデルにして描いた絵が、どこかに展示されているのではないかと思い始めて、否、気がつかないで、通り過ぎてしまったのか、それとも全く存在しないのだろうかと思って、探すのを諦めてしまった。 (5.30)

 

 

 

古くなったか布たちも

                        柴田秀子

 

 唱歌にある「夏がくれば思い出す」は水芭蕉の景色だが、私がすぐに思い出せるのは「西馬音内盆踊り」である。

 この土地の女性達は、代々伝わる着物をはぎ合わせて一枚にする。すなわちお端縫い(おはぬい)である。踊り衣装は汗の故か激しく傷むらしい。一晩お世話になった保存会会長宅で、二百年は経ったという着物をそろりと着せ掛けてもらった。古い布なりの状態と感触を今も忘れていない。

 いつしか名残り布と呼ぶ古い布が手元に集まってきていた。子供の頃からの二ツ身、四ツ身、それに本裁ちの着物などおいそれとは手離せない。しかし、六十年以上経つのでコシが無くなりホロホロ裂けてしまう。緯糸(ヌキ)として整えながら裂き織りを続けようと思う。古い布たちは私自身の所有ということだけではなく、一枚一枚が昭和の時代背景をうつしとっている。染色、柄模様、自然の景であったりする。戦いを連想させる図柄もある。

 裂き布の分量を算段しながら、色の配分良くどんどん織るうちに、わが手の動きとは違った色調になる。それがはっきりするのは機あげをした時、期せずして見受けられる布のたたずまいだ。意外なおもむきと面白さを見つけようとすれば、いつでも見つけることが出来る。

 現在はコロナ禍を気遣いながらの在宅日が多いなかで、在庫の素材に目がゆく。使う当てもなく蔵ってあった各種の糸類、キビソ、麻糸、紙布などを引っぱり出して織る。タペストリーやパーテーションを完成させた。

 振り返ってみれば、織り機のスタート一台目は地機(じばた)だった。そんなことを思い出しながら、長い年月のあれやこれやを含めた格好で、やっと織り上げたかなとつらつら想う。少しは片付いたかと見える利点もあるが、それ以上に、やっと取っておきの裂き布を織ることが叶いそうだ。

 ついこの間も、右上腕に痛みを覚えたが夢中のまま進めた。こうした時間こそ大切、近頃になく「やりましたよ」の一点に、私の気力は定着した。

 この禍から降りかかるものを追い払い、言うに言えない鬱陶しさを断ち切るために、自分の時間を目一杯使う。聞き慣れた「どうにかなるから」とする時間ぐすりの効能をしばらくは保っていたい。いや、いかなければならない。 (5.15)

 

 

 

「アートフェア東京2021」を観て

                        田尻英秋

 

 コロナの影響で去年は開催されなかったが、今年は入場を制限しつつ行うとのことで、「アートフェア東京2021」に行ってきた。元々毎年観に行っていたのだが、去年は直前になって開催が中止となってしまい、残念だったのを憶えている。今年は制限(事前予約のみ、入場時間が決められている)があるとは言え開催されるのは嬉しかった。このイベントは絵画の展覧会、というよりも国内外の画廊による美術品(主に現代美術)の売買が中心のもので、以前はおそらく海外から買い付けに来たと思われる、外国人バイヤーらしき人も多数見受けられたのだが、今年は渡航制限がされている状況でどうなっているのか気がかりでもあった。実際に、会場に行ってみると海外の人はともかくとして、入場が制限されながらも来客者が多くやはり盛況であった。本人を含めた多くの作品がオークションで高額で落札されている状況なのだが。そういうのを見るにつけ、自分は意地でも、「現代」を含めて「アート」という言い方はしないようにしようと思っている。

 ところで常々思うのだが、何時頃から「現代美術」はカタカナ書きの「現代アート」という呼ばれ方をするようになったのだろうか。以前、谷川俊太郎が何かの対談で、「現代アート」という呼ばれ方を「気恥ずかしい」と言っていて、自分も同感に思ったことがあったが、今では当たり前にあちこちで使われるようになってしまった。加えて自分は「気恥ずかしい」上に「胡散臭い」イメージを抱いてしまう。何か金儲けが絡んだ胡散臭さ。実際、今「現代アート」は大きなマーケットになっていて、日本人を含めた多くの作品がオークションで高額で落札されている状況なのだが。そういうのを見るにつけ、自分は意地でも、「現代」を含めて「アート」という言い方はしないようにしようと思っている。

 会場を見回してみて幾つか興味ある作品に巡り会えた。やましたあつこ(TAKU SOMETANI GALLERY)の静謐な作品群、齋藤詩織(小林画廊)の何気ない郊外の風景を描きながらも、荒涼とした心象風景を感じさせる作品群、それと佐藤允(KOSAKU KANECHIKA)の猥雑ながらも自らの傷や痛み、セクシャリティを抉り出した作品群、などなど。本当は画像を付けて紹介したいけれども、勝手に載せると差し障りがあるかもしれないので興味ある方は各々調べてみるか、今ならば「アートフェア東京2021」の公式HPにてバーチャルで会場の様子が見られるので、それでご覧いただければと思う。 (4.30)

 

 

 

日々思考片

                        若尾儀武

 

 昨年春、 いつだったか、この欄に「近頃、風呂で歌を歌わなくなった」と書いた。元来、歌は好きなほうである。だから、歌わなくとも耳底に、これという歌はいつもあって、それを聴き、リズム取ってその歌の世界が醸し出す情緒に浸っていた。

 ところが、最近、その耳底が怪しくなってきた。歌詞とメロディのどちらが先なのか分からないが、それらがかすれて遠く、空の隅のひっそり閑とした舞台の袖に消えようとしている。いや、もう既に消えてしまったのかもしれない。どんなに耳を澄ましてもドの欠片もミの欠片もソの欠片も聞こえない。

 何処へ行ってしまったのか。「あああああ」と思っていたら、そこが耳の神秘というか、命の不思議というか、消えた歌の跡地に水が流れ出した。すると、待ちかねたように草が生え、風が起こり、葉擦れの音が聞こえだした。そして、死んだ振りをしていた水辺の田螺がつぷつぷと声にもならない聲をあげだした。

 一瞬、何もなくなったと思った耳底。自身の耳が小さなブラックホールのように思えた。

 しかし、つらつら考えてみるにこれらはずっと以前から耳底にあったものなのかもしれない。ただ、わたしが聞こうとしていなかっただけなのかもしれない。それが証拠にどこか懐かしく、うら悲しい。とりわけ、田螺の聲。わたしは真夏の真昼間、身じろぎもせずに聞こえもしない田螺の聲を聴いていたような気がする。

 すっかり舞台替わりしたわたしの耳底。

 ベンチに座り、木かぶに座り、石に腰かけ、遠く動いているのか動いていないのか判然としない雲などを見ていると、不意に耳底の音や聲が天の雫のように降ってくる。わたしはそれを自身のどこかにある器で受け取っている。

 器はまだまだ満ちない。溢れだすのは、五年先か、十年先か、そして、溢れたあと耳底をとってかわるものは?

 ゆっくりと思おう。時代はそんな悠長な時を刻んでいないと言われようと、緑いろした飛蝗が白い石に止まって、石が緑いろを帯びてくるのを待つほどに(4.15)

 

 

 

Uさんと犬 わたしの犬

                        野木京子

 

 昨年春、最初の緊急事態宣言が発令されたとき、緊張して縮こまっていた。外に行く仕事も全部なくなった。そんななかで明かりがさすようだったのが、夕方、海辺の公園で、犬をつれたUさんに会えることだった。Uさんは友達だから、会うと話ができてうれしい。犬に会えるのもうれしい。Uさんの犬は雲のかけらみたいに小さくて白くて、もこもこしている。マルチーズという犬種だ。この子がどういうわけか、私に会うと大興奮してぴょんぴょん飛び跳ねる。私なんかを好いてくれて、なんていい犬なのだろう。

 事情があって、私はいま、犬を飼うことができない。飼う予定がないというのに、妙なことに固執する傾向が私にはあり、将来飼えるようになったときはどの犬種にするべきかと、しだいに真剣に悩みはじめた。マルチーズがいいな。いや、それではUさんの真似みたいだな。

 公園には、Uさんのほかにも犬をつれた人たちが集まる。穏やかで優しい顔の犬をつれている人がいた。キャバリア・キングチャールズ・スパニエルという犬種だと教えてくれた。この長い名前の犬がいいな。

 映画『パターソン』を思い出した。詩のノートを食いちぎってしまう賢いブルドッグが出演していた。調べたら、犬種はイングリッシュ・ブルドッグだという。公園に、ブルドッグをつれた人がいたので、「イングリッシュ・ブルドッグですよね」と、さかしげに話しかけたら、その人は困惑した顔で「いいえ。フレンチ・ブルドッグです」と答えた。日本で飼われているブルドッグの多くが、フランス人が小型化したものだということを、初めて知った。なるほど。ドーバー海峡のどちら側のでも構わないから、ブルドッグがいいな。

 住宅街にひっそりカフェが開店していた。こんなご時世だがコーヒーを飲みに行った。若い夫婦が経営するこの店には犬がいて、ミニチュア・ダックスフンドだ。深い知恵のある、賢者の顔をしていた。この犬種も大好きになった。

 どの犬種にするべきか真剣に悩んでしまったので、姉に電話して相談した。姉が「おかあさんが亡くなる少し前、雑誌を見て、マルチーズかわいいなあと言ってたわよ。京子ちゃん、マルチーズにしたら?」と言った。知らなかったからびっくりした。ふりだしに戻った。

 ここまで書いて、もっとずっと大事なことがあるのを思い出した。長い間、忘れようとしてきたこと、忘れたふりをしてきたことだ。子どものとき飼っていた犬がいた。その犬がいてくれたおかげで、小中学校でのひどく嫌なこといろいろを、私でも乗り越えることができたのだ。だが犬は、だれもいない場所で死んだ。それは私のせいではなかったし、家族のせいでもない。でも、犬はずっと、私が助けにくるのを待っていたのではなかったか。なぜ私が助けにこないのか理解できないまま、極北と言ってもいいくらい冷たい場所で、ずっと私を待っていたのではないか。そのことを思い出すだけで苦しくなる。あの犬がずっと、見えないまま、私のそばにいるようにも感じる。幻の犬という犬種はあるだろうか。

 保護犬という犬種もあるよ、それで重荷が軽くなるのなら。幻の犬が、声を出さずに私に言いはじめた。(3.31)

 

 

嵐の後に咲く 

                        佐藤 恵

 

 春の嵐は、三日間つづいた。嵐が来る前日、庭のミモザは、朝日が一番先に差し込む枝を指し示すように、最初の一輪二輪をようやく咲かせたばかりだった。

 ミモザの花を初めて見たのは中学校の卒業式で、あふれるように咲く花房が桜の大枝とともに壇上に飾られていた。忘れがたい別れと旅立ちの日に、花の名前を尋ねると、近くにいた国語の先生が「ミモザ」だと教えてくれた。まるい小花の明るい黄色は、未来を照らす光のようだとノートに綴った。

 今年の春、庭のミモザは初めてたくさんのつぼみをつけた。七年前、転居を機に長年の夢を叶えようと、小さな苗を植えたのだった。不安になるほど細く弱々しい苗だったが、翌年には驚くほど背丈を伸ばした。オーストラリア原産の樹木は、生長の早いものが多い。私が植えたのは銀葉アカシアで、放任すると大木になる。剪定で小さめに育てることを胸に誓って、植える決意をしたのだった。ミモザと呼ばれる花は種類が多く、卒業式で見たのは、花房のゆたかなフサアカシアだったのではないかと思う。生長が早い反面、ミモザの枝は強風で折れやすい。植えてから何度も何度も、庭のミモザは根本から倒れ、そのたびに起こして支柱を頑丈にした。庭は風の通り道で、ようやく咲こうとしていたつぼみが暴風に煽られ、葉ごとちりちりに枯れてしまったり、裂けるように枝が折れてしまうことが何度もあった。

 たくさんの花が咲く予感に満ちたこの春、嵐にゆさぶられる枝に触れながら、咲く前に枯れないことを祈った。植物に思いが通じたのだと信じたくなるほど、ミモザは嵐に耐え、嵐の後に次々と咲いていった。不屈のミモザは満開となり、明るい花房をたわわにゆらした。

 倒れても倒れても起き上がり咲いたミモザ。一人で眺めるには贅沢な気がして、撮った写真をできたばかりの「タンブルウィード」に添えて、今は招くことが叶わない家族と知人たちに送った。誰も訪れない場所で、舞い降りる無数の光のように明るい花房がゆれている情景は、胸のなかでくり返し再生される。倒れたり折れたりするたびに励ましていたつもりが、我が身を重ね、恢復と休息のイメージとなっている。(3.15)

 

 

つぶやいている 

                        冨岡悦子

 

 カール・ダーヴィッド・フリードリヒに「樫の森の修道院」という作品がある。数本の樫の裸木に囲まれた修道院の廃墟が描かれている。雪に閉ざされた真冬の風景画で、白と黒とその中間色が画面に広がっている。ドイツロマン派の画家フリードリヒの代表作として「氷海」や「霧の海を眺めるさすらい人」を挙げる人もいるが、私には「樫の森の修道院」がずっと気になる作品だ。

 雪深い廃墟の絵には、動きのあるものは見えない。人の気配もない。だが、修道院の廃墟であれば、かつてそこには祈りの生活があり、まめまめしい日常の繰り返しがあったにちがいない。目覚めてから廊下を歩き、修道僧どうしで会釈をかわし、聖堂に向かう。朝食のあとには、掃除をする人、農作業をする人、聖書の書写をする人、薬草を調合する人がいて、屋内も庭も静かな活気があったにちがいないと想像してみる。その痕跡の消えかかった廃墟をキャンパスに描く行為は、何に突き動かされていたのだろうか。

 この数年「人新世」という語を、様々なメディアで見かけるようになった。「じんしんせい」あるいは「ひとしんせい」と読むようだが、もともとは地質学用語である。人間の活動による地球環境の悪化を指していて、環境への意識改革をうながす警告として使われている語だ。提唱者はオゾン層研究を専門とする大気学者パウル・クルッツェンであるが、人文科学、社会科学、自然科学の分野によって、定義も一定していないという印象がある。

 たばこ総合研究センターの刊行誌「談」が、昨年「人新世と未来の自然学」(119号)という特集を出した。哲学者篠原雅武、生物学・生態学者林竜馬、経済思想・社会思想家斎藤幸平が、インタビューに答える形で「人新世」について語っている。「人新世」という語を語る姿勢は三者三様で、含意するものや強度も違ったが、篠原雅武の次の言葉は何度も読み返すことになった。

 「人新世への移行期において刻み付けられた人間の痕跡は、人間が不在になり、人間との相関関係を欠落させた状態においても、そのまま残るということがある。激甚災害の多発は、この人間の不在化と、人間の痕跡の廃棄物化を促すことになるでしょう。」

 フリードリヒの絵に描かれた廃墟は不在の人たちの生活を想起させるが、放棄された工場やビル、閉鎖された高速道路はただ異物としてさらされるということだろうか。洪水や地震による災害は、人間の記憶でさえ廃棄物にしてしまうという示唆なのだろうか。あらがうすべを探して、私は身近にある紙やボールペンを手元に引き寄せる。あらがうすべは、毎日のささやかな繰り返しにある、と抗弁してみる。考えることにある、とつぶやいている。(2.26)