回想、身のまわりのこと、芸術あれこれ2018(下)     

         

 

 

サフラン   

      冨岡悦子

 

 サフラン色は何色かしらと問われたことがある。花の色ならうす紫色と答えたが、帰り道につらつら思い巡らしてみると、サフラン色は金色かもしれないと思った。サフランライスの黄金色が目に浮かんだからだ。はじめてサフランライスを食べたのは、年上の女友達の家でお昼ご飯をごちそうになった時だった。きれいな色に見惚れていると、サフランて花の名前なのよと教えてくれた。

 香辛料のサフランは雌蕊の朱色の花柱を乾燥させたもので、米と一緒に炊くと黄金色の御飯が炊き上がる。色辞典にはたしかにサフラン・イエローという色があり、薬用、香料、染料になると書いてある。百グラムの染料を採るのに一万五千本の花が必要であるとも書いてあった。薔薇色、桃色、桜色、牡丹色、菫色、山吹色など、花の名が冠された色は、花びらの色であることが多い。サフラン・イエローは染料から色名を取った珍しい例なのだそうだ。

 サフラン色が何色なのか、いまだ決着がつかないままだが、サフランで思い出す二つの詩がある。その一つは、サフランに漢字の「洎夫藍」をあてた北原白秋の六行詩である。

 

罅入りし珈琲椀に/洎夫藍のくさを植えたり。/その花ひとつひらけば、/あはれや、呼吸のをののく。/昨日を憎むこころの陰影にも、時に顫へて/ほのかにさくや、さふらん。

 

ひびが入って使えなくなったコーヒーカップに、サフランの球根を植えるという思いつきが、なんとなく素敵だ。サフランは秋に咲く花だから、空気が澄んできて冷気を感じる頃の日常をとらえたのだろう。心に影がさす人は、サフランのひそかに花咲く様をじっと見つめている。暗鬱な人の心と響き合って、うす紫色の薄い花びらのわずかに揺れるさまが浮かびあがってくる。

もうひとつ、サフランの詩と言えば、吉岡実の詩「サフラン摘み」がある。四二行のこの詩は、一度読んだら忘れられない魅惑的な詩だ。クレタ島で発見された壁画「サフラン摘み」について、破損が多いためにサフランを摘んでいるのが猿なのか、少年なのか不明であるとの新聞記事を読んで発想の原点とした、と高橋睦郎が解説で書いている。来年二〇一九年は、吉岡実の生誕百年にあたる。クレタ島に行けなくても、吉岡実の「サフラン摘み」を読めば、詩の迷宮に遊ぶよろこびがある。「サフランの花の淡い紫」と「四つんばいになって」サフランを摘む少年のしなやかな肢体が、冬至を過ぎて寒いこの机上にも、あざやかな幻となって束の間あらわれたように思えたのだった。(12/30

 

砂漠が美しいのは   

      立木 勲

 

  妻の古い知人の女性Sさんの四十になるお子さんは、自閉症で普通の生活には少し苦労をされている。彼は話すことはないけれども、代わりにすぐれた書で語ることができる。そして妻と私は今年も彼の個展に招かれた。

 ちなみに、昨年の目玉は板の間に掛けられた襖四枚ほどの大きな書であって、「花が好き/歌が好き/夢が好き/あなたが好き/この人生が好き/ふたりして歩くこの道が好きです」という、やなせたかしの詩であった。一年前の日、Sさんは書の脇に立ち、その横で彼は木の椅子を揺らしていて、「これは、毎週書道の先生の処から手をつないで歌いながら帰る私とこの子の姿なのです。先生はそれを知っていてこの詩を書かせることにしたのでしょうか。」と、語ったのであった。

  今年招かれて伺うと、同じ板の間にはこんな文が墨でえがかれていた。「砂漠が美しいのは どこかに 井戸をかくしているから」これはサン・テグジュペリの「星の王子さま」の中の一文である。(この日も彼は木の椅子を揺らしていてこの文の意味をおそらく知らない。)壁の書の横にやはりSさんはいて、うれしくてしかたがないという風であった。Sさんの僕と妻への眼差しには、僕らへの願いとも祈りとも言えそうな想いも感じられ、僕らはそれぞれにそれを受け止めた。(奥深いところで願いを共有でき、それを抱え、またそれぞれの世界に戻っていく、そういう時の感動を僕はまだ形にすることができない。この時も。) 

 僕らは次の日、有隣堂で「星の王子さま」を手に入れた。砂漠のはなしの数ページ前には、「なに、なんでもないことだよ。心でみなくちゃ、ものごとはよく見えないってことさ。かんじんなことは、目に見えないんだよ。」という一文があった。

肝心な事を知るには科学(例えば社会科学)的な「見る力」が必要であると言われるが、その根のところには心で見ることができる力が不可欠であると、僕は自分に語り、感動を大切にしてしかも流されることなく踏みとどまり形にするのだと、応える自分の声を聴いている。(12/15

      

時を継いでいくもの

      大城 定

 

 もう、ひと月以上も前のこと。金木犀の花があっという間に散った。急に風に香りがなくなって、庭が殺風景になった。過ぎ去った大型台風のせいだ。地面に粉が吹いたような、散りはてた花びらさえも見あたらない。それから少したって老梅の木陰に、優しげにうつむく山茶花の、ピンク色の花が咲いた。その花の温かな色合いのせいで、梅の木肌が一層冷たく見えた。

 高い空に薄く筆で刷いたような青が広がっていた。その空を突くほどの勢いで、梅の枝が伸びきっている。「桜切るバカ、梅切らぬバカ」とはよくいったものだ。去年、剪定をさぼったツケ。案の定、この春はほとんど実が生らなかった。さてどうするか。盛夏をとうに過ぎて、無駄な枝をはらう時期になった。私は混みあう枝の間に入っていき、内向きな枝やへそを曲げたような癖のある枝を選び切っていく。人の性格と同じで、外を向いて素直に伸びていく枝こそ大切なのだ。でもね、とも思う。内向きにもなりますよ、へそも曲げますよ、時には、ねえ。ひときわ曲がった枝が目の前で黙っている。

  梅のなかの世界が少し風通し良くなってきた。私は脚立の上から見下ろして、山茶花のまわりを眼で探した。大きな葉を広げた石蕗(つわぶき)の株がある。そろそろ、おまえたちも黄色い花を咲かせる番だ。バトンを受けとるように花が時を継いでいく。そんな時間の流れが私のまわりにもずっとあったに違いない。

  冬の敷居をまたぐ庭のあちらこちらに、灯をともすように石蕗の花が咲く。そのことに今更のように気づかされたことがかつてあった。石蕗の種は軽いんだな、と連れあいにいうと、彼女に、何いってるのよ、私が株をわけて植えたのよ、と呆れた顔をされた。あのころの私の時間は滝のようだった。今はゆったり流れている。(11/30

    

発売日

     宗田とも子

 

 発売日は毎月7日だった。文具店に漫画の「りぼん」や「少女ブック」が、飾られると、走って買いにいった。水野英子や渡辺まさこなど競って描いていた頃である(後にトキワ荘の時代だと知った)。ストーリーは、バレエの主役争い、親切にした老人から莫大な財産を譲られる、ママ母との葛藤などなど。自分の生活とかけ離れた物語が展開し放課後も級友たちと、どう続くのかしゃべりあった。読み終えまた7日を待ち続けた。その間には犬の散歩、テスト、大掃除など現実をこなさねばならなかったが。待ちに待ったラストでは、ヒロインがようやく幸せをつかむのだが、子ども心にも、なんともあっけない幕切れだった。作者も夢を描いていてその後に続く長い人生にため息をついていたのかもしれない。いつの間にか読まなくなり、月刊の漫画雑誌もなくなっていった。ぱらぱら散るように町の本屋も文具店も無くなりその跡はコンビニや駐車場になっていった。遥かな時代のことなのに、わたしにはいまだに毎月7日のドキドキ感が残っている。遠い坂の上まで一気に走る挿絵のような日は来ないことをとうに知ってしまったのに。(11/15

 

映画『ベニスに死す』から

       鈴木正枝

 

 ヴィスコンティ監督『ベニスに死す』で、初めてマーラーの音楽が好きになる人は少なくないと思う。私もそのひとり。交響曲5番第4楽章アダージェットは、ハープと弦楽器だけで演奏される。その荘厳かつ切なく優雅な甘美さは、この映画の主題のひとつを担っていると思う。

 老音楽家アッシェンバッハは、休養のため、同じくベニスにきている貴族の少年タッジオに出会う。音楽家は若さと美の象徴ともいうべき彼に次第に魂を奪われていく。老いた皺だらけの顔に白粉をぬり、紅をつけ、髪を黒く染めて、昼となく夜となくタッジオを求めて彷徨い、ついには疫病に感染し、海辺のデッキに横たわったまま死んでいくのだ。目の前の砂浜には、きらめく波光のなかに浮かびあがる美しいタッジオの立ち姿、そしてアダージェット……タッジオの美しさと対比的に、失われた若さと美を求めて後を追い続ける老人の哀しい孤独、切なさ、悲惨さに心を動かされた。ここまで美に眩惑されることの比喩的な意味はなにか?

この映画を思い出す時、なぜかいつもオスカー・ワイルドの『ドリアン・グレイの肖像』が浮かんできて困る。ワイルドというと耽美主義、退廃主義の権化のようだが、ここにも作者をイメージさせる美青年ドリアンが登場する。彼は自分の若さと美を賞賛してやまない画家に肖像画を描かせるが、現実の自分のかわりに肖像画の自分の方が歳をとってくれることを望むようになる。その望みどおり快楽放蕩の限りをつくすたびに肖像画のドリアンは醜く老いていく。それに耐えきれず追いつめられた彼は、ついに肖像画にナイフを突き立て、死にいたるのだ。後に残されたのは、変わらず美と若さを誇っている肖像画と、醜悪な老人の死体。解釈はどうであれ、この結末は脅威的であり、同時になにより魅力的だ。私の中では、妙にねじれた一本の糸となって、さらにサロメ、ビアズリーと繋がっていくのである。

何年か前、ダブリンの街をうろついていた時、トリニティーカレッジの前の歩道のベンチに、なんとオスカー・ワイルドが座っているではないか。三つ揃えのスーツを着て、足を組み、右手をベンチの背にもたせかけて。なぜかわくわくして、その側にちゃっかり座り写真を撮ったことをなつかしく思い出す。(10/31

 

吹きあがる町

     河口夏実

 

今年の夏はあまりにも暑くて、

おおきめのシャツと風通しのよいズボンという恰好がらくで、家で過ごすのも

どこに行くのもそんな感じだった。

このまえのセールで買った海の底のように深いブルーに朱色の花模様の

羽織ものを着たかったけれど  

この猛暑ではね。秋になったら長袖のカットソーの上にはおるのも

いいかもしれない。

だからマニキュアをドラッグストアで買い、もうすこし華やかな夏に

することにした。みなとみらいでモネ展がやっていて観に行くことにした。

観覧車が回るこの町はとても強く風の吹いてくるところだ。

日傘が浮きあがって手から放れてしまいそうになるし、遠くから眺めると

水に入っていくのが分かるモネの夕日が壁のひとつを染めあげていた。

かたちがないものを見つめているとき、ひとはぼんやりとソファに座る。

アイスコーヒーがテーブルに運ばれてくるのを待っているようにも

見える。

そういえば昔、この辺りの造船所で母は働いていたことがあり

ひとの給料の計算ばかりしていたんだよ。よく父がふざけてそう

言っていたのを思い出す。

でも仕事帰りには映画館に寄り、マレーネ・ディートリッヒが

母のお気に入りの女優だったから『モロッコ』が上映されることが

あれば、きょうの空を見あげるように観客のひとりになっていたに違いない。

ちょうどピカチュウのパレードが町を横切り、すっかり

人込みに巻き込まれてしまったが、無数にある風船のいくつかは途切れながら

道に転がり美術館のなかにも紛れ、壁伝いに歩いていけば

アンディ・ウォーホールも、ピカソの絵もすこしだけど

観ることができた。     (10/15

 

貝の道

      柴田秀子

 

  神奈川県立近代美術館葉山での真夏の企画展「貝の道」を見て来た。絹の道シルクロードは良く知られているが、等と思いながら、興味を持って出掛けた。

   展示は貝の種類ではなく「宝貝」がどんな風にどんな物に縫われ、編まれ、織りこまれてきたかを教えてくれた。

   貝の道の一つとして先ず東南アジアの海モルディブの辺りから、サハラ砂漠を越え、アフリカの隅々にまで届いていた。隊商らは駱駝の細い足首に貝飾りのワッカをはめ、その様子を楽しく眺めながら進んだのだろう。

   貝は固く鉱物と同じ扱い方だったと思う。一般的に貝の用途は大きく分けて、貨幣、仮面、衣服、帽子、胸当て、耳飾り、頭飾り、首飾り、腰ベルト飾り、表示がまちまちだったのは、「袋、カバン、Bag」。数ある中で「儀礼用肩下げ袋」は大小の貝をきっちり編み込んであり美しい。サイズは現代のポシェットと左程違わないので、すぐ肩に下げてみたかった。いずれの作品も儀式用は特に手技が密で素晴らしかった。

   仮面は敵の侵入を意識したものが顕著で、当然ながら怖い印象である。「男鹿半島のナマハゲ」とそっくりな面があった。国は違っても人の感情表現は目と口に表れるものらしい。

   沢山の実物展示品は国立民俗博物館(大阪)の所蔵品の一部であるという。貝によって優れた細工が施されていたから、長い年月遺されてきた証拠と再認識した。

  また、当館の近海から獲れた貝はひとつひとつ大切に展示されていた。その中でも好きと感じたのは「ウミギク」横須賀。全体に赤味がかつた桃色、表面の刻みは細かく深い。正に「海の菊」だった。

   今回は手しごとの方面から、糸と布が貝と密接な繋がりを持っている点を探し、大いに見つけることが出来たので、貝殻好きにとっては満点の一日であった。9/30)

 

鍋島紀雄の絵

     田尻英秋

 

 長野県東御市に梅野記念絵画館という美術館がある。先日「伝説の三巨人 洲之内 徹・大川 栄二・梅野 隆の眼」展という企画展に行ってみた。この企画展は、その名のとおり洲之内、大川、梅野の三氏の生前コレクションした美術作品を展示したものであった。興味深いものは数多くあったが、なかでも鍋島 紀雄(なべしま ただお/1897年~1968年)という作家の「幻花歎惜図」という作品に惹かれた。彼の作品は日本画のジャンルに入るのだが、描かれた作品は西洋画の手法に近いものだった。日本画にありそうな対象の輪郭がはっきりしたものでなく、タイトルの通りに白や赤、橙などの色とりどりの花の存在が融解しあって濃密な画面を満たしているものであった。非常に気品ある作品と思われた。ネットで鍋島のことを検索してみると、1968年、交通事故で不慮の死を遂げたとのことであった。あまり作品が出回っている様子ではなかったが、青山のある画廊で取り扱っているとのことで、そこに寄ってみた。画廊のご主人がしまい込んである絵を見せて下さった。下津井の海の朝焼けと思われる、色彩豊かな作品であった。ご主人に話をうかがうと、かつて生前の梅野氏にお会いしたことがあって、正に美術館にあった作品を買おうと交渉したのだが、高額で諦めたとのことであった。「手放すつもりがなかったのでしょうね。」とのこと。あの作品を実際に見て来た私は、梅野氏がそう思うのもうべなるかな、と納得したのであった。(9/15)

 

古希

     若尾儀武

 

 古希を過ぎたら見える景色が相応に変わるものだと思っていた。ところが、二年経って振り返ってみても一向に変わっている気配がない。変わらないどころか、「キミは現在、どのあたりにいると思う?」と問われると、「さあ、どの辺なんでしょうね。」と逆に問い返してみたくなる。強いて言えば、五十手前のあたりからずっと動いていないような気がする。

 そもそも、年齢などというものは便宜上その人の履歴を明らかにするために恣意的に設定されたもののような気がする。この地上の多くの生物は、満でも数えでも年齢をもたない。少なくとも、意識上の事実として年齢なぞ考えていない。

 この夏、田舎に出掛けて、草刈をしていた折、刈った草の下に私の知らない虫が突然の環境変化に 行く手があるのか、ないのか、怖ろしいほどの沈黙を抱いて右往左往していた。おそらく、彼らにとって、生の出発点も終結点も一本の棒のように連続しているのだろう。そのあとだって。

 暑い日であった。私はその様を見ながら何度か草刈と給水を繰り返し、時々に吹きわたる涼しい風に身を任せて、ふと、このまま凧のように飛んでいってもいいなあと思った。(8/31)