回想、身のまわりのこと、芸術あれこれ2019(下)

 

手を遊ばせる   

        冨岡悦子

 

 用事という言葉が嫌いである。用事をすます、用事をこなす、の用事である。それでも用事としか呼べない事柄が、次から次へ目の前にやって来る。長方形の付箋に、一日の用事をとりあえず順序不同に書き並べることにしている。ひとつの用事を終えるたびに、真っ赤な油鉛筆で一文字に線を引く。ちまちまと、なんだか子供っぽいなと、思いながら、毎日懲りずに、ちまちまと赤い線を引いている。

 用事としか呼べない事柄を終えた時に、小さな時間があると、できるだけ自分の手を遊ばせることにしている。たとえば、詩の書写をすることだ。このあいだの冬至の夕暮れには、牟礼慶子の詩「帰郷」を書き写した。コバルトブルーのインクのはいった万年筆で書くか、檜皮色の極細筆ペンで書き写すか少し迷って、万年筆で書いた。

 

 父よ あなたが住む向こう側の谷になら

 どんな道しるべも不要でしょうが  

 けれどどうか私には

 あなたの無言ののどに落ちこんでいる

 やさしいことばを貸してください

 

 一九六五年刊行の詩集『魂の領分』に入っている詩だ。書きながら、泣きそうになる。うるうるの泣きたい気持ちは、今日一日少しずつ働いたご褒美だ。四百字詰めの原稿用紙に、明るい青の文字が並んでいる。ああ、ここで深く息をしようと思う。(12/30

 

若尾儀武さんの詩から   

        立木 勲

 

 「現代詩手帖」11月号の詩誌月評欄に、「タンブルウィード」6号の若尾さんの詩が取り上げられている。私はこの四年ほど、若尾さんと詩作を共にしてきているが、白井氏の評を読みながら改めて考えたことがある。若尾さんはすでに二冊の詩集を刊行され、「タンブルウィード」1号から詩を発表されてきているのであるが、それらの詩を貫く「想い」のようなものの一つとでも、まず、それは言えるかもしれない。

 在日の少年との関わりの日々、戦争とその後の時代、そして学校や子ども世界の中で、詩の中の語り手の前から「いたはずの者がいなくなる」「存在していた人の存在が奪われていく」「そこにいる者が消えていく」のである。若尾さんの多くの詩の、時と場と事情の中で、様々な子どもや青年や女性(母)が消えていき、若尾さんの化身としての語り手は、痛みを抱えて、ただ佇み残されるのである。

 白井氏の取り上げた詩はそのような系譜に連なるものである。若尾さんのそのような詩が新鮮であり続け、力を持ち続けていることに、(詩人としての優れた技量によるものであることは言うまでも無いことであろうが)残された者として、背負い続けているものの量や質と、なにかしらの「覚悟」のありように思いを巡らすことができる。

 田宮虎彦の短い小説に『異母兄弟』がある。戦争の時代の中で、ゆがめられた様々なものが、敗戦により消えていき、ひとり佇む母のもとに、姿をくらましていた末の子が現れる。次の時代をつくる出会いがそこにある。

 若尾さんの「覚悟」の詩作の行く末に「現れる」者は、どのような者でありどのような形をとるのであろうか。それは若尾さんの探し求めるものでありながら、おそらく同じ時代を生きる私達にも広く問われているものであるに違いない。

 そのように思いながら鶴見川の土手を自転車で走っていると、ああなるほどと「断片」ではあるが思いいたったことがある。ああ、でも・・、三か月ほど寝かせておいて、そして整理し考えてみようかと思うのである。多分、ここは明確にすることが大切なのではなくて、曖昧さを含みながら豊かに膨らませることが大切だろうと思うからである。(12/15

 

振り向いた犬   

         多田陽一

 

  犬を連れて散歩をしている人とよく出会う。知り合いでもなんでもない人なのに、そのたびに私は、犬の貌をのぞき込む。そんなことが習慣になって久しい。なぜ犬の貌に思わず目がいくのか、自分にもよくわからない。

幼稚園に通っていたころ、父が庭に犬小屋をつくった。ペットというより番犬としてである。よく吠える犬だった。連れて来られた時には小さかったが、どんどん成長した。だが、どんな貌をした犬だったか、幼い記憶からすっかり抜けおちている。その毛色も、目の大きさも、耳のかたちも。跳ねたり、走ったり、犬小屋につながれた鎖をギシギシと引っ張っていた記憶だけがときどき私のなかで頭をもたげる。雨の日、庭先から聞こえてくる犬の鳴き声を、私はどんな気持ちで聞いていたのだろう。今になっては自問するばかりだ。

つい最近のことだが、久しぶりに再会した友人たちとの集まりを終えて、みなで喫茶店で一休みすることになった矢先、そのなかの一人が今日はこれで失敬といって残念そうに帰っていった。自宅にいるペットの犬を散歩に連れていかなければならないという。

私は我が家にいたあの犬を散歩に連れていっただろうか。母は喘息で床に臥していた。父は深夜でないと帰ってこない仕事人間だった。私にわずかに残された記憶のひとつは、母にいわれて、犬小屋に餌を持って行ったときのことだ。犬が病気だという夜、私は夕飯の残りをアルミのお椀に集めて、犬小屋までもっていった。病のため痩せていた犬はクークーと小さな声を漏らして、力なく寝そべった体から貌だけをこちらに向けてくる。こびりついた黄色い目ヤニが痛々しかった。それから間もなくのことだ。真新しいランドセルを背負って学校から帰ってくると、犬小屋には犬がいなかった。保健所に連れていかれたという。不治の病であれば、そういうことになる時代だったのかもしれない。あるいは、犬を介護するには家人の力が及ばなかったのかもしれない。犬は父によくなついていた。後日父から、近くの寺で懇ろに葬ってもらったと聞いた。(11/30

 

初夏に桐生に行きました   

        宗田とも子

 

 この秋、関東を襲った自然災害の惨状が連日報道されている、明日は我が身だと思いつつただただ痛ましい。不意に初夏に両毛線に乗ったことを思いだす。まだ穏やかな街並みや田畑が広がっていた。片道3時間余りかかる桐生市に行ったのだ。大川美術館の「松本竣介のアトリエ再現プロジェクト」のテーマにひかれたからだ。駅から15分ほど、坂道を登りつめると、こじんまりした美術館に到着する。この静かな画家のアトリエの窓、白い棚、蔵書類、発熱しながら描き続けた情熱、愛読書を見つめてきました。今はない鎌倉の近代美術館で作品に出合ってから、なつかしいひとに出合うように画集を開いてきました。大川美術館の帰り、かっての織物の町の鋸屋根は静かで、たどり着いた同窓記念会館横の桐生川土手で聞いた弓道大会の歓声や、命中したのか、鮮やかな太鼓の音と平行した川の流れの音が、わたしのなかに流れていきました。

 今は、地球温暖化という渦を抱えて何となく暗い気持ちにもなりますが、やっぱり空は澄んでいると、見上げることが多くなりました(11/15

 

那珂川   

        鈴木正枝

 

 ここ二、三週間、台風による大雨で各地の川の氾濫・決壊の被害が続いている。

 あの那珂川が氾濫?テレビのこの映像には、一瞬目を疑った。今までもあったのだろうか。私の記憶の中にある那珂川は、水戸市の北を悠々と流れる幅広いおおらかな川で、あたり一面に田畑が広がり、所々に人家がのんびりと寄り添っている風景である。その遥か彼方に、地平線を覆うようにうっすらと青みを帯びて連なる阿武隈高地、そのすべてが見渡せる高台の中学校で、三年間を過ごした。

 他の校歌はすべて忘れてしまったが、中学だけは憶えている。「阿武隈の青き遠山 那珂川の清き流れを 見晴かすふるさとここに 集いたる関東の子ら」そのあとは二部合唱になっていて、「その男(おのこ)瞳は黒く」この部分は女子が歌い、「おとめごの声冴え冴えし」ここは男子が歌うのである。遠く広がる北の大地を見ながら、光太郎や啄木への幼い憧れをいだいた時期でもあった。

 川本来の姿が戻らなければ、人間本来の生活は戻ることができない。

 この期間中福島原発現状のニュースが流れてこないのが気になった。あの林立した処理水貯蔵タンクと汚染土砂を詰めた袋の山。私が見過ごしていただけなのだろうか。(10/30 

 

開山忌   

         河口夏実

 

 藤沢の遊行寺に高橋俊人(たかはしとしんど)さんの歌碑が立っている。歌碑に刻まれているのはこういう歌だ。「感傷も今宵はよろし開山忌あがないてもつ葡萄の房を」。

 夏の日差しに秋の空気が入り混じる九月の終わりの、萩が道端に咲くころ、遊行寺の開山忌がひらかれる。その志納金の封筒を(今年、町内会の役員が回ってきたので)、ご近所のポストに配りながらふと父の事を思い出した。父には悪いが、亡くなって二十年以上も経つと、そう思い出すこともなく過ごしていた。でも思い出すときは明るくて、私たち姉妹を連れて歩くのが好きだった父の姿だ。まるで日向のような温かさで現れ、消えていってしまう。

 高橋俊人さんは父の短歌の先生だった。『まゆみ』という歌誌を発足した人でもあり、まだとても若かった父が、父親のように年の離れた高橋俊人さんに出会い、師事したのがたぶん、歌人としての父の出発点だったのではないだろうか。歌碑に刻まれた歌は父が選んだものだ。よく自慢していたが、私だって嬉しかった。当時の私は、艶やかな葡萄の美しさと、お祭りのざわめきが読みこまれているように思っていたが、もうしばらく年月を生きてみると、別の感慨も生まれてくる。それは行灯のともされる坂道を歩きながらひと房の葡萄を買った。手に取るとずっしりとしたおもさになぜか心が傾いて、感傷に浸っていることなんてあまり出来ずにきたけれども、今日くらい構わないだろうと。

 父が亡くなる数年前にいちどだけ、歌会について行った事がある。病気をした後の父の体が心配だったからだ。そこは東京の下町のどこかの公民館で、父の仲間が集まってやっていた。そこのお世話役の人が私に「短歌はいいですよ。ぼくたちの歌はつまらないけど」と言っていたのを懐かしく思い出す。

『街路樹』という父の歌集をひらいていると、いつのまにかタイムマシンに乗りこんで、思いがけない場所に降ろされる、そんな感じがする。それは「街路樹の落葉を散らす風あれど膝暖かし朝のひかりに」が作られた、行き帰りの電車の中かもしれないし、「みずからの文字を彫りたる石文は縁日に葡萄をあがないし歌」が作られた、風が吹き渡る、道の上かもしれない。(10/15)

 

絹の手触り   

         柴田秀子

 

 クーデンホーフ・カレルギー・光子(旧姓・青山ミツ)は明治25年頃、外国人に嫁ぐ娘はいなかったであろう時代に、オーストリア・ハンガリー帝国公使館代理公使のハインリッヒ・クーデンホーフ・カレルギーと結婚した。3年間は今までの慣れた牛込での暮らし、息子2人が生まれ、穏やかに過ぎた月日をあとにして、帰任する夫、子供たちと共にボヘミアへ向かった。いずれそのうちには帰国出来ると思っていたふしはある。

 伯爵邸のある広大な屋敷の中で7人の子供を育てた。その時期はどんなにか幸福であったろう。当時の光子の様子は社会的にも、社交界の花としても活躍していたからだ。子供たちが成長し、それぞれが思い思いに巣立った。東洋から嫁いできた光子は、ボヘミア貴族として尊敬していた夫を急に亡くしてしまった。この事実は寂しさの極みだったと思う。次女のオルガが支えた母の病後、老後にあっての慰めは、日本から持ってきた四ツ身の着物とお揃い袢てんだったようだ。手にとってしみじみ眺めたであろう。赤い絹地、日本の模様の手毬、鴛鴦、松竹梅、鶴と亀に話しかけていたのではないだろうか。華やかだったロンスベルグ城は長い間荒廃したままになっていたが、近年やっと市長を先頭に改修の手が入っているらしい。

 今、ヨーロッパではEUに関する話題が多い。「汎ヨーロッパ」をはじめて提唱したリヒャルト・クーデンホーフ・カレルギーは光子の次男である。彼女は一度も日本に帰ることなく一生を終えた。心持ちの強い日本女性の一人であると思う。(9/30)

 

理由   

                  若尾儀武

 

 最近、風呂で歌を歌わなくなった。かなり最近まで、体を洗い終えて再度湯舟に身を浸すとき何の気なしに思いもよらぬフレーズが口をついて出て、それをきっかけにながながと歌っていたような気がする。歌に自信はないが、湯気の音響がついついいい気にさせる。

 それが、ぱったりと止んだ。歌が嫌いになたというわけでもない。今だって、歌えば胸がキュンとする歌がいくつもある。西田佐知子の「アカシアの雨」はそのひとつである。北原ミレイの「ゴメが鳴くからニシンが来たと赤いツッポのやんしゅが騒ぐ」で始まる漁師歌もそのひとつである。

 しかし、歌わなくなった。湯船に浸かり、歌の代わりに「はあー」でも「ふうー」でもない、ハ行音に潜む長い息を吐いている。

 私の身体の中で何かがかわったのであろうか。あらわれとしては、歌を歌うか歌わないかというだけのことである。しかし、今、「歌え」と言われれば、もう少し身体の奥のほうで、「いや、よしましょう」と答えるものがある。(8/30)