回想、身のまわりのこと、芸術あれこれ2021(下)

 

  唾液と詩

                        田尻英秋

 

このところ職場である特養老人ホームの事情で、毎週のようにPCR検査を行っている。PCR検査は唾液を検体として提出、分析し、コロナウイルスり患の陰性、陽性を判定する検査である。そのため毎回2から3ミリリットルの唾液を専用の容器に採らないといけないのだが、これが結構大変なのである。幸い今まで陽性反応が出たことはないのだが。

唾液と言えば大岡信の詩に「詩と真実」というのがあるのを思い出す。この作品は二部構成となっており、「1」と番号が振られたパートの冒頭では、「ひとつの唇が他の唇と出会うとき/ひとつのかたくなな世界が壊れ/新しい唾液が世界ののどに溢れる というのは嘘だ」となっている。しかし「2」のパートでは最初の二行が同じ詩句の繰り返しとなって、三行目末尾だけが「……のどに溢れるのは 私の真実」と全く反対の意味に転換されている。他の連も「1」と「2」で同様の転換がなされており、あたかも「私」という詩人の主体を通してのみ、詩のフレーズが真実を帯びると主張するかのようである。「詩と真実」というタイトルも象徴的である。

唾液、唾のつながりだが今井義行の詩「水際」には「くちびるをひらく/くちびるとくちびるをかさねる/あなたの唾は異国の尖った川のようだ」というフレーズもあった。大岡信の作品にせよ、今井義行の作品にせよ唇と唇が触れ合う口づけ、キスとそれに伴う唾液、唾の進入に新たな世界の開けていくイメージが鮮烈に表現されていると思う。

最近の詩作品では蜆シモーヌの「せくれしょおん」で、「星がつめたくて/恋しくて/きゅうに綺麗だったから/つばをおとす……/外灯にひかって/かがやいて/うれしくおちて/星になる」というフレーズがあった。「せくれしょおん」とは英語のsecretion、分泌から来ているのだろうけれど、この詩作品からは全体的に粘膜、粘液を伴った肉体性を感じさせる。「蜆(しじみ)」という軟体動物のイメージのペンネームと相俟って、自分の詩作品のスタンスを決定づけている感がある。

世間は相変わらずのコロナ禍で、他者との接触がまだまだ憚られる毎日である。早く思う存分唾液の交換をしあったり、唾液を飛ばしあったりできる世の中になって欲しいものである。 (12/15)

 

 

 

  

  金木犀

                        若尾儀武

 

秋ぐちを過ぎてしばらくした頃、同人の間を行き交いするメールの中で冨岡悦子さんが「今年は金木犀の花が二度咲きましたね」と書いておられた。何かの連絡か報告の文頭であったと思う。私も今年の金木犀はいつもと少し違うなあと思っていた。一度匂いだしてすぐに消え、ずいぶん素っ気ないなあと思っているうちに、また匂いだしたからである。しかし、それを私はてっきりマスクに覆われつづけた嗅覚の異変だと思っていた。まさか、二度咲きだったとは。

 

ところで、私は子どもの頃花々にほとんど興味を持たなかった。田帰りの道々、母は「ヨシタケ、見てみ、この花きれいやな」と誘い水を投げかけるのであるが、私はトンボやイナゴやバッタばかり追いかけていた。そんな私ではあったが、金木犀にだけは強く興味をひかれていた。

稲刈りを終えた薄暮の野道を村に近づくと、どこからか澄んだ甘い匂いがしてくる。それが我が家の庭の隅に咲く金木犀であることは頭では分かっているのだが、村全体をつつむように立ち昇り、静もった気に紛れて漂ってくるので、本当の本当はどこで匂いを発しているのか分からなかった。

「何処で咲いてるのやろ」

「何処で、て、うちの庭に決まってるやろ」

「そやけど」

「そやけど、なんや」

「いや、何でもあれへん」

匂いのもとを探して早足で歩く。しかし、早足で歩けば歩くほど、匂いは遠ざかる。実際、家に着くと、もう匂いがしなかった。

 

現在、私は郷里から遠く隔だたったところに住んでいる。いま住んでいる家の庭に金木犀はない。何処ぞに金木犀があるのだろうと探してみるが、路地のどこにもない。それでも秋ぐちを過ぎると金木犀の澄んだ甘い香りがしてくる。

どうやら金木犀の香りというものは逃れるように遠ざかりつつ匂うものなのかも知れない。 (11/30)

 

 

 

 

 詩の吃音者

                        野木京子

 

何年たっても忘れられない詩集がある。三好豊一郎の後期の詩集『夏の淵』(1983年)もその一冊だ。覚悟と深みのある詩篇群であり、そして詩集中に置かれている散文「吃音者の弁」を読んだときの衝撃は、私の記憶に残った。

その文はこう書き出される。

「言葉に対するカンが鈍ってきたのに気づきはじめたのはよほど以前からだが、六年前おやじの老後を看取って、死に到る最後の十日間を、刻々に腐ってゆく生ける屍が生命を停止した直後の、急速な変化において受けとめて以来、いっそう吃音状態におちいったのを感じてきた。」

「死にぎわは見よいものではなかった。顔はむくんでふくれ、頭は八つ頭芋のようにゆがみ、」と、これ以上書き写すのがおそろしくなる描写が続き、「そしてないからあるへ突出している生ける屍を見、その日毎の変容を十枚のスケッチに描きとめた。」(「ない」と「ある」に傍点)と書いている。

 三好豊一郎は絵を描く人でもあった。植物などを精緻に見つめ、克明に描き、個展も開いた。私の記憶のなかでは、この「吃音者の弁」は詩集の序文として冒頭に置かれ、その次のページに、死にゆく父を描いたスケッチが添えられているというものだった。今回、久しぶりに詩集を手に取って、開いて自分で驚いた。「吃音者の弁」は序文ではなく、あとがきとして最後に置かれている。そして父の絵はどこにもなく、詩集に添えられている絵は、ほおずきや松ぼっくりのような植物のスケッチ画だ。どうして私は何年もそんなふうに思い込んでいたのだろう。記憶は変容するとはいうものの、父の死の克明な絵が詩集に載っていると、そう思い違いをしていたのだ。言葉による鬼気迫る描写が、映像として、私の脳に刻み込まれてしまったのだろう。

 そして前述の文はこう続く。

「そのとき、ある世界はない世界の上に浮いているのだ、と私は感じた。」

「それは、ある世界からない世界へ一転する瞬間、有限が無限へ遠ざかる瞬間に、そこに一挙におそろしく濃縮された時間が流れたのを感ずるとともに、それにくらべたら、私の詩の中に流れている時間など何とも間伸びして稀薄だと、それが私の気を殺いだのだ。」

「これに対抗しうる濃密な時間が詩の中に得られなければ書く意味はない、と私は思った。」

(以上の文中「ある」と「ない」に傍点)。

 つまり、生きるとは、死という大海に浮かんでいるにすぎないし、詩を書くとは、冷厳な「ない」世界を前にして、吃音の、とぼしい言葉をひり出すことでしかないということなのだろう。それでも、生きている時間にいるうちは、とぼしい吃音の言葉を出し続けていく。あるいは、それをやらなければ、浮かんでいる意味がない、ということでさえあるかもしれない。

 ところで、三好は戦時中、肺結核のために、丙種合格(実質上の不合格)で戦争へ行かなかった。三好が戦争へ行かなかったから「荒地」は成立したのであり、「荒地」を根底から支えた詩人が三好豊一郎だった。

 WOWOWのドラマ『荒地の恋』(2016年)を見たことがある。感動的なドラマで、特にりりィが演じた最所フミの姿に、胸を打たれた。私は学生時代、英語学者(という肩書でよいだろうか)の最所フミを心から尊敬していたのだ。彼女が鮎川信夫の配偶者であることは無論知らないまま。北村太郎を演じた豊川悦司は抜群によかったし、鮎川信夫を演じた田口トモロヲもよかった。でも、ものすごくがっかりして、怒りのあまりテレビを蹴飛ばしそうになった瞬間があった。それは三好豊一郎の登場場面で、三好が単なる田舎のおっちゃんみたいに描かれているように思えたのだ。そうじゃないだろう。ドラマ制作者たちや演じた俳優は、三好豊一郎という詩人の凄みを知らなかったのだろうか。写真家の細江英公が舞踏家土方巽を撮った写真集『鎌鼬』刊行後の、そうそうたる関係者たちの集合写真を見たことがある。そこでも、三好は気迫のこもった顔で写っていた。

 だがそうはいっても、先輩詩人の田中冬二から、似ている、ホッホッホと笑われ、福助人形を無理やり家に持って帰らされたという散文も三好は書いているから、覚悟を持った顔などは、たいていはひっこめて、江戸時代の福助のような風体の人でもあったのだろう。

私自身は、自分の父と母が亡くなるとき、その顔を克明に絵に描くなどというおそろしいことは、考えもしなかった。私はいまも、父母が「ない」世界に行ってしまったとも思えずにいる。父母はいまも「ある」世界にいて、ちょっと外出しているだけなのだと自分をごまかすこともある。死に対して態度の甘い私は、中途半端な吃音者なのだ。それでもときどき、自分もほかのひとたちもすべて、「ない」世界に浮かんでいる存在にすぎないことを思い出す。そして、「ある」世界は「ない」世界の上に浮かんでいるのだから、「ない」世界こそが、「ある」世界を根底から支えているのだということも思い出すのだ。 (11/15)

 

 

 

 乾電池の人

                        佐藤 恵

 

故郷から同窓会の知らせが届いた。この状況のなか悩みながらも、実行委員で協議を重ね、感染対策を徹底した上での開催を決めたとのこと。それというのも単なる同窓会ではなく、還暦の年祝いを目的とした会なのである。ここ数年、誰もがこのように判断を迫られ、苦慮することもたくさんあったことと思う。先行きの見えない状況のなか、私たちは普段何気なく行ってきたことの一つ一つに慎重になり、予定を立てることも困難で、時間を費やして準備したことさえ断念しなければならなかった人も多かっただろう。

私自身も、毎年母を自宅に招いていたが、新型コロナウィルスの感染が拡大し始めてからは、先延ばしにしたままでいる。現在82歳の母が「生きている間にせめてもう一度行ってみたい」と言うたびに、「一度と言わず何度でも迎えにいくよ」と気休めのように返していたが、ようやくそれを実現できそうな明るさも見えてきた。感染状況も落ち着いてきたところだが、10月の父の七回忌は実家の家族だけで行うことになり、帰郷はしなかった。

そんななか、東京に住む娘が二年半ぶりくらいにやってきて、しばらく滞在することとなった。会わずにいた間に、娘は二回入院し、私はなんとなく疲れの抜けない冴えない顔での再会となった。

お茶を淹れ、久しぶりに他愛ない話をして気がゆるんだこともあって、返信の期限が迫った同窓会の葉書を眺めていた私は、その実行委員の名前を見ながら、つい「初恋の人なのよね」とつぶやいた。すると娘がすかさず「乾電池の人?」と尋ねた。「乾電池? ああ、そうそう、乾電池の人」。「乾電池」とは、故郷を離れる日の思い出を書いた私の詩のタイトルである。「乾電池」と聞いて、もう四十年以上も前の出来事が思い出されて、鼻の奥がつんとした。そう、差出人は「乾電池」という詩に書いた人なのだった。なにはともあれ、思わぬ形で安否を確認できてよかった。帰郷の際にはいつも用事を済ませるだけで日程の余裕がなく、もう長く故郷の友人とも会っていない。「人生の後半に向けて、励まし合う大事な時間となるように」との呼びかけに、これまで生きてきた互いの人生の尊さと、帰る場所として迎えてくれる人々の優しさを思った。「最悪中止となることもあります」との断りに、みんなが元気で顔を合わせられたらいいなと思っている。次の年祝いにも集まれますように。出欠の返信葉書には、残念だが「欠席」に丸をして投函した。    (10/30)

 

 

 

 

 旭川の風

                   冨岡悦子

 

 旭川空港を出ると、おだやかな風が吹いていた。頬を撫でるくらいの柔らかい風。秋の風をあらわす語に、爽籟、鳩吹く風、野分、葛嵐、金風、色なき風などがあるが、この風を何と名づけたらよいのだろう。五行説でいう白秋の名の通り、秋の風に白を感じた。

荷物を携え東京南部の坂を登って感じた風とは、重さが違う。地図で羽田から旭川までの距離を測ると、約900キロある。上海から北京、パリからベルリン、サンディアゴからブエノスアイレスまでの道程とほぼ同じ距離だ。

旭川の乾いた風に吹かれて、10月の初旬に木々は紅葉を始めていた。車窓から見える林の木々が白い風にかすかに揺れている。旭川には、小熊秀雄賞贈呈式に参加するためにやって来た。当地で小熊秀雄賞市民実行委員会の方たちとお会いして、旭川についてもっと知りたいと思っていた。

贈呈式の翌日、7条通8丁目買物公園にある児童書専門店「こども冨貴堂」に案内してもらった。絵本の棚のあいだに小さな詩書のコーナーがあり、お店の奥にワークショップのスペースがある。ワークショップには、鮮やかな模様がついた石や手書きの絵ハガキが置かれていた。どれも子どもたちの手による作品とのことだった。

 動物を描いた絵本で知られるあべ弘士さんは、旭川の出身である。長く旭川動物園に勤務されていたそうだ。「こども冨貴堂」のファサードには白クマやオオカミの絵が描かれているが、この動物の絵も、あべ弘士さんが描いたものと伺った。

 旭川の澄んだ風に吹かれて、私は小熊秀雄の晩年の詩「私と風との道づれの歌」を思い出していた。50行ほどの詩なので、ここではその8行だけ引用したい。この詩行には、旭川に吹く風が今もそっと吹き抜けている。

 

   やさしい一羽の小鳥のために

  私は精魂を傾けつくして

   小さな微妙な胸毛の

   ふるへにも耳傾けよう、

   可憐な一片の花弁のみぶるひにも

   私は眼を大きく見張らう、

   一枚の葉の失望的なふるへにも

   私はともに苦しむのだ、

 (岩田宏編『小熊秀雄詩集』岩波文庫より                                                                                       (10/15)

 

                                          

 

 

 

 ただあやのさんの個展で

                        立木 勲

 

 先日、千駄木のギャラリーでのただあやのさんの個展にヨンとふたりで出かけた。あやのさんの個展に実際に足を運びお会いして作品を直にみるのは初めてのことである。ちなみにあやのさんは私たちの詩誌の同人である多田陽一さんの娘さんである。坂をのぼったところの小さな入り口で奥に長い白いギャラリーに小柄な娘さんが一人いた。

 

ギャラリーのいくぶん粗い壁に、小さめの作品が掛けられていて、私たちはそれを前に少し話をした。多田さんの詩集「きみちゃんの湖」の表紙はあやのさんが描いた女の子の絵なのだが、「あの絵はずいぶん前の作品なのです」と、壁に掛けられた作品を見ながら言われ、展示されている作品に改めて私は目をやった。詩集の表紙で膝を抱える女の子と、展示作品の中の女性は大きく変わってきており、作者の現在を強く意識させた。

 

 それぞれの作品の中には女性がひとりいて、あるものは己の形を変え、あるものはくびきの中にいて、どこか遠い処へ目をやり、作品世界の中に彼女らは囚われているかのようであった。掛けられた作品はひとつの小さな入り口であって、その入り口のむこうにはこの世界とは異なるある種の異界が展開されており、「そこに私はひとりいて、ある覚悟を持った者だけが入ることを許されるのだ」と、ひとつひとつ、作品は語っていた。

 今30代であるあやのさんに、40代の時、50代の時、そして私と同じ60代になった時の作品を是非拝見させてくれと私は頼んだ。

 向こうの世界で力をつけ、統合された身体と心を取り戻し、異界の壁を突き崩しこの世界に再び現れる、そうしたあなたの作品を見てみたいと、心のなかで私は言った。

 

 私たちは時にあやのさんの作品のような詩を見ることができる、と、ギャラリーを後にしながら思われた。詩が異界への入り口であり、その向こうに固有の世界が展開され、けれども、その世界(そこで生きる人を含めて)と、作者は未だ統合を果たせていない。そのような存在の苦悩を内に秘める、短く凝縮された静かな詩である。

 

 「素敵な娘さんがいていいね」と、千駄木駅へ向かいながら、ヨンと私は話した。「来年もまた個展はあるでしょう。その時に、もし、展示作品の傍らに、控えめに小さな詩が添えられていたら、なんと素敵なことでしょう」と、私はヨンに言った。異界で戦う女性の作品の傍らに、それと真正面に向き合う詩人の己をかけた小さな詩が、ある種の緊張感をもってそこにある。それは大層魅力的なことに思われた。

 「いつものスープカレー食べて帰りましょう」

 そう、何にせよ、腹ごしらえをしなければならない。自分の明日を生きるために、腹ごしらえをしなければならない。ことさらに熱い陽を振り仰ぎ、私はヨンにうなずいた。       (9.30)

 

 

 

 

 迷路

                        多田陽一

 

 夜の散歩道。好んで細い路地に入っていくと、夜陰のなかの知らない径が知っている道につながることもあるし、知っている道から知らない径に迷い込むこともある。それも、何かしら、考えごとをしながらだから、そのときの考えが袋小路に入ってしまうと、やれやれと視線をあげて、初めて自分が知らない径に迷い込んでいることに気がつくという具合である。

少し前の映画の話だが、『万引き家族』を観た。そのせいか、その日の散歩は、家族のつながりということを考えていた。観た人によってさまざまな感想があるだろうが、家族というかたちのまえに、人と人との出会いのもろくも尊いつながりを見せられた気がしていた。祖母の年金と万引きが家計の支えである家族が夜の径で、親にネグレクトされている幼い子と出会うシーンがある。人が人として出会う。そのためには見えない橋を架けなければならない。親と子の間でもおなじこと。と、自分なりの感想にいたるのだが、さて、灯台下暗し。自分はどうなのか。考えこんで佇んだ径は見覚えのない径である。

 家並みの小さな灯りがたくさん見える丘のうえに立つと、どこかの灯の下から、不意に幼い子の泣き叫ぶ声がする。誰か、わがままな子が親に叱られているのだろう、と思いながらも、振り返る自分がいる。児童虐待という、世の中の、崩れ落ちてしまった橋を思うとき、薄氷のうえを歩いている気になるのは私だけだろうか。つい先日の新聞には「児童虐待初の20万件超、30年連続最多更新」という大きな見出しが載っていた。人類の心の在りようはなんと激しく醜く、個の中で揺れてしまうものなのか。と、また物思いに沈んでいたとき、私は降ってわいたような忘れがたい体験をしたのである。

驚いたことに、前触れもなく私の前に、見も知らぬ男の子が飛び出してきたのだ。電柱の灯りの下、三歳ぐらいの子である。両手をひろげて、くすくす笑い、通さないよ、通さないよ、と言っている。笑い声が次第に大きくなって、身もだえするように体をゆすっている。ふざけているな、と私は思った。通してくださいな、通してくださいな、と優しい声で、私は言ってみた。だが、通さないよ、通さないよ、と一点張りである。すると、すぐ横の家から、これも小学校に入るか入らないかぐらいの小さな女の子が飛び出してきて、だめ、だめ、と言って男の子にしがみつき、私のために径を開けてくれた。ありがとうね、私は彼らに向かって拝むように両手をあわせた。家の門のところに母親らしい人がいて、私に向かって軽く会釈をしたように思った。私も少し頭を下げて、そのまま黙って歩いていった。子どもたちのじゃれあう笑い声が背後で続いていた。振り向いて、手を振ろうかと思ったが、やめた。男の子にとっては、一人の大人が拝んで通っていったことで充分なのだから。見上げれば、まるい月が今にも空にとけてしまいそうだった。見知らぬ大人の私を信じた、幼子の無邪気さを、私は尊いと思った。 (9.17)